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第6回「小説でもどうぞ」選外佳作 秘め事/朝霧おと

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第6回結果発表
課 題

※応募数394編
選外佳作「秘め事」朝霧おと
 私は雪子の夫である。結婚して三十年、世の夫婦のほとんどがそうであるように、私にとって妻は空気のような存在だ。
 これまでなんとかやってこれたのは、大恋愛の末結ばれたのではないからだと思う。恋は激しく燃え上がれば燃え上がるほど、燃え尽きたときの落差は大きい。そこそこの恋愛で結婚に至った私たちは、その後にやってくる幻滅や倦怠を普通に受け入れることができた。
 とはいえ、雪子のことを好きか、嫌いか、と問われれば、好きなほうだと思う。ただ、悲しいかな、出会ったころに抱いたあの甘くてせつないような感情はとっくの昔に失われていた。
 ただの家族、または同志と言えばいいのだろうか、改まって雪子のことを思うと、やはり空気というところに落ち着いてしまう。妻は女性というより中性に近いのかもしれない。
 最近、そんな雪子に変化が現れた。気持ち悪いほど機嫌がいいのだ。
 私がリビングのソファでうたた寝をしていると、いつもなら「邪魔」と言って叩き起こすのに、こっそりと毛布をかけてくれる。
 気が緩んでつい放屁しようものなら、やり返されるのが常だったが、今ではクスクスと笑って身をよじる。
「いやあねえ、緊張が足りないよ」と。
 雪子の変化は日ごとに強くなっていった。
 ひょっとして恋をしている? 
 恋をすると、人は何に対しても優しくなれる。私の経験からであるが、周りがピンクに染まり、常にふわふわと浮いたような感覚に陥るのだ。
 しかも注意深く雪子を観察すると、明らかにきれいになってきていた。肌の張りも髪の毛のつやも目の輝きも声のトーンもこれまでと全然違う。三十年前につあっていたころの雪子のようだ。
 その日はいつにも増して雪子の機嫌が良かった。
「何かいいことあったのか?」
 キッチンに立っていた雪子はふりかえり、眉をぐいっと上げた。
「え? わかるの?」
「いやなんか楽しそうだなと思って。まさか恋でもしてるとか」
 私はからかうつもりで聞いてみた。
 すると彼女はうふっと恥じらいを見せ首をかしげた。
「なんでわかっちゃうのかなあ。そのとおり、恋をしているの」
 私は椅子から転げ落ちそうになった。
 夫に面と向かって「恋をしている」という妻がいるのだろうか。私は完全になめられているではないか。
 とはいえ、妻の言う恋なんて、どうせ韓国ドラマに出ている俳優か、若いイケメンタレントに憧れている程度なのだろう。
 現実離れした話なら、誰に恋をしようと勝手である。
「それはよかったな。ま、せいぜい恋をしてきれいになってくれ」
 妻には秘密にしているが、私は過去に何度か恋をした。不倫というやつである。自分がまるでドラマの主人公になったようで、別れの辛さもあるが、それさえも脳内でドラマティックに変換される。この上なく甘美で忘れ難い経験は、今も時折思い出しては感傷に浸ることがある。
 雪子の恋とは次元が違う。そもそも恋なんて人に宣言するものではなく、秘め事にしてこそ価値のあるものなのだ。
 雪子は相変わらず機嫌がいい。たかだか芸能人に憧れるだけで穏やかな日が続くのは、私にとってはありがたいかぎりだった。
 いったいどんなタイプの男がいいのか知りたくなった私は、単刀直入に聞いてみた。ただの興味本位である。
「で、だれに恋してるの? ファンクラブとかにあんまりお金を使わないでくれよ」
 ささやかな給料なのに、生活費でグッズを買われたり追っかけをされたりしたらたまらない。
 雪子はきょとんとしたがすぐに笑顔になった。
「いやあねえ、そんな女子中学生みたいなことはしないわよ。それに彼は芸能人じゃないし」
 冷水を浴びせられたようだった。
 芸能人ではない? ということは実際にそばにいる人物だということか。
 パート先の上司、コンビニの店員、荷物の配達員、交番の警官? もしかして友人の夫?
 冷水を浴びたはずなのに、私の体はだんだんと熱を帯び、カーッと頭に血が上り始めた。
 雪子は私の妻だ。だれにも盗られたくない。
 強烈な嫉妬心が押し寄せ、私の体は制御不能になった。
(了)