第5回「小説でもどうぞ」佳作 私に還る朝/平野流
第5回結果発表
課 題
賭け
※応募数242編
「私に還る朝」平野流
眩しい光を瞼に感じて目覚めた。窓のカーテンが開いている。部屋に見覚えがない。ベッドから立ち上がり、部屋を見回す。起き上がりクローゼットを開ける。一通りの洋服がかかっていた。部屋のドアを開けるとリビングとダイニングになっている。冷蔵庫には食べ物が充分に詰まっていた。ペットボトルの水を取り出しダイニングの椅子に座って飲んだ。
昨日ここに引っ越して来た事は覚えている。その前はどこに住んでいたんだっけ? 何をしてたんだっけ? 家族は居たんだっけ? 頭痛がする。手がかりを求めチェストを開けてみる。
『これで一年間、好きな事をしてのんびりと暮して下さい』とプリントした紙が添えられ、現金が一千万円入っていた。
ダイニングの椅子に戻り考え込んでいるとお腹が鳴った。トーストと目玉焼きを作りコーヒーを淹れた。気分転換に散歩に出た。家の周りは田園地帯で少し行くと小高い丘になり森が広がっていた。森の小道には、ベンチが所々にあり親子が遊んでいたり老人が休んだりしている。今度お弁当を持ってピクニックに来ようと思う私がいる。記憶を無くす前の私はピクニックが好きだったのだろうか?
五、六歳ぐらいの女の子と母親が手をつないで歩いてくる。すれ違いざまに女の子は「こんにちは」と挨拶し、私も「こんにちは」と微笑んだ。母親が軽く会釈して二人は通り過ぎていった。私は振り返り二人を見送る。女の子は母親と繋いだ手を勢いよく振りながら飛び跳ねていた。みぞおちの内側が掴まれたようにぎゅっとなる。鈍い痛みだ。何かを思い出しそう。記憶に霧がかかって見えない。頭がキシキシと錆びた歯車のように痛む。近くのベンチに座り込んだ。目を閉じて深呼吸をする。森の匂いが肺を満たし、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
私は庭で花や野菜を育て始めた。いつものように朝のコーヒーを飲んだ。花柄の白い容器にコーヒーの黒が揺れて光る。
(あれ? これなんて言うんだっけ? えっと、あ、『マグカップ』だ!)
私はそこに『マグカップ』と書いたラベルを貼った。
その日から少しずつ物の名前が思い出しにくくなった。鍋、お皿、フライパン、テーブル、椅子。覚えているうちにとラベルを貼り続けた。ラベルは日に日に増え、家の中の殆どのものにラベルが貼られていった。
毎日散歩に行き、庭の手入れをし、森の丘で夕日を眺めた。目に付くものの名前をラベルに書き貼った。庭に来る野良猫と仲良くなり、鳥や草花に話しかけた。過去がなく未来もどうなるかわからない。記憶もどんどん消えていく。不安より穏やかな生活を愛することにした。一日の終わりにはカレンダーにバツをつけた。一ヶ月毎のカレンダーが十二枚めくられた朝、小さな箱が届いた。差出人は私だ。中には『一年後の私へ』と書いたDVDが入っていた。
リビングのテレビで再生する。画面に私が出てきて話し始めた。顔色が悪くやつれている。
「一年前、家族旅行中に私は交通事故で夫と五歳の娘を亡くしました。私だけが一命を取りとめました。私は精神科医で研究者でもあります。自分も死ぬことばかりを考える毎日の中でそれが最善ではないこともわかっていました。だから、自分に催眠術をかけることにしたのです。一年間一人で穏やかに暮らし、その暮らしと時間が私を癒やしてくれることに賭けました」
私の言葉は続く。
「家族の思い出につながる物の記憶も全部消しておきます。何かを見て思い出すことのないように」
私は部屋中のラベルを見渡した。
私の声がして視線を画面に戻した。
「無くしていた記憶を今から戻します。この一年の記憶も残ります。私が生きてくれることを祈ります」
画面の中で鉛の振り子が揺れて、瞼が垂れてくる。
甘やかで春の日差しのような匂いがする。娘の匂いだ。懐かしい夫のヘアトニックの匂いがする。
私はゆっくり大きく息を吸って目を開けた。
(了)
昨日ここに引っ越して来た事は覚えている。その前はどこに住んでいたんだっけ? 何をしてたんだっけ? 家族は居たんだっけ? 頭痛がする。手がかりを求めチェストを開けてみる。
『これで一年間、好きな事をしてのんびりと暮して下さい』とプリントした紙が添えられ、現金が一千万円入っていた。
ダイニングの椅子に戻り考え込んでいるとお腹が鳴った。トーストと目玉焼きを作りコーヒーを淹れた。気分転換に散歩に出た。家の周りは田園地帯で少し行くと小高い丘になり森が広がっていた。森の小道には、ベンチが所々にあり親子が遊んでいたり老人が休んだりしている。今度お弁当を持ってピクニックに来ようと思う私がいる。記憶を無くす前の私はピクニックが好きだったのだろうか?
五、六歳ぐらいの女の子と母親が手をつないで歩いてくる。すれ違いざまに女の子は「こんにちは」と挨拶し、私も「こんにちは」と微笑んだ。母親が軽く会釈して二人は通り過ぎていった。私は振り返り二人を見送る。女の子は母親と繋いだ手を勢いよく振りながら飛び跳ねていた。みぞおちの内側が掴まれたようにぎゅっとなる。鈍い痛みだ。何かを思い出しそう。記憶に霧がかかって見えない。頭がキシキシと錆びた歯車のように痛む。近くのベンチに座り込んだ。目を閉じて深呼吸をする。森の匂いが肺を満たし、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
私は庭で花や野菜を育て始めた。いつものように朝のコーヒーを飲んだ。花柄の白い容器にコーヒーの黒が揺れて光る。
(あれ? これなんて言うんだっけ? えっと、あ、『マグカップ』だ!)
私はそこに『マグカップ』と書いたラベルを貼った。
その日から少しずつ物の名前が思い出しにくくなった。鍋、お皿、フライパン、テーブル、椅子。覚えているうちにとラベルを貼り続けた。ラベルは日に日に増え、家の中の殆どのものにラベルが貼られていった。
毎日散歩に行き、庭の手入れをし、森の丘で夕日を眺めた。目に付くものの名前をラベルに書き貼った。庭に来る野良猫と仲良くなり、鳥や草花に話しかけた。過去がなく未来もどうなるかわからない。記憶もどんどん消えていく。不安より穏やかな生活を愛することにした。一日の終わりにはカレンダーにバツをつけた。一ヶ月毎のカレンダーが十二枚めくられた朝、小さな箱が届いた。差出人は私だ。中には『一年後の私へ』と書いたDVDが入っていた。
リビングのテレビで再生する。画面に私が出てきて話し始めた。顔色が悪くやつれている。
「一年前、家族旅行中に私は交通事故で夫と五歳の娘を亡くしました。私だけが一命を取りとめました。私は精神科医で研究者でもあります。自分も死ぬことばかりを考える毎日の中でそれが最善ではないこともわかっていました。だから、自分に催眠術をかけることにしたのです。一年間一人で穏やかに暮らし、その暮らしと時間が私を癒やしてくれることに賭けました」
私の言葉は続く。
「家族の思い出につながる物の記憶も全部消しておきます。何かを見て思い出すことのないように」
私は部屋中のラベルを見渡した。
私の声がして視線を画面に戻した。
「無くしていた記憶を今から戻します。この一年の記憶も残ります。私が生きてくれることを祈ります」
画面の中で鉛の振り子が揺れて、瞼が垂れてくる。
甘やかで春の日差しのような匂いがする。娘の匂いだ。懐かしい夫のヘアトニックの匂いがする。
私はゆっくり大きく息を吸って目を開けた。
(了)