第5回「小説でもどうぞ」佳作 一人遊びのゆくえ/稲尾れい
第5回結果発表
課 題
賭け
※応募数242編
「一人遊びのゆくえ」稲尾れい
西武池袋線に乗っている間ずっと、手すりもつり革もない左右のドアの中間地点に立ち、バランスを取り続けていた。高校がある池袋からバイト先の練馬までの五駅間、ずっとだ。最近私はこんな一人遊びばかりしている。
停車する時のひときわ大きな揺れによろめき、何とか持ちこたえてホームに降り立った。どうやら、勝ってしまったらしい。階段の方へ歩きながら、うそでしょ、と思わず呟く。
「麻耶ちゃん」聞き慣れた声で呼び掛けられ、ビクリと肩が跳ねた。水沢君が隣に並んだ。
「今着いたの? 電車、同じだったのかな」
「みたいだね。全然気付かなかった」
いたたまれない気持ちを喉の辺りでグッと押さえ付け、水沢君に笑い掛ける。ついさっきまでの五駅間に心の中で繰り返し唱えていたことを思い出すと、顔が熱くなった。
練馬のハンバーガーショップでバイトを始めたのは半年前、高校に入って間もない頃だ。他校の二年生である水沢君は、不慣れな私の失敗をいつもさり気なくフォローしては「元気出していこう」と声を掛けてくれた。いつ頃からか、バイトの後には二人で寄り道をするようになった。敵情視察だなどと言ってバイト先のライバル店に入り、フライドポテトをシェアしたりする内に、想いは高まった。
そして私の一人遊びが始まった。スマホゲームの難易度が高い面を攻略している時。クイズ番組を観ていて、家族の誰かと私の答えが違っていた時。遠くのゴミ箱に向かって紙くずを投げようとしている時。日常のあらゆる瞬間に、私は心の中で小さな賭けをした。
『もしこの面を一発でクリア出来たら、水沢君は脈アリ』
『もし私の答えが正答だったら』
『もしこの紙くずがゴミ箱に入ったら』
賭けの結果には毎度うっすらと一喜一憂していたものの、花びらを一枚ずつむしってはスキキライを占うことと大差ない、という虚しさもあった。だから今日、電車の中ではちょっと冒険をしてみたのだった。こんな風に。
『もし電車から下りるまでどこにもつかまらずにいられたら、水沢君に告白する』
水沢君と連れ立って駅の中央口を出ると、進行方向の横断歩道の信号が珍しく青かった。駅前の交差点は車道の交通量が多いせいか、横断歩道が一旦赤信号になると長くて、いつもなら大抵ここで足止めされてしまうのに。
『もしこのまま立ち止まらずに交差点を渡り切れたら、告白は成功する』
そう思った瞬間、水沢君が急にしゃがんだ。
「ごめん、ちょっと待って」
彼がいつも履いている白いスニーカーの鮮やかな赤の靴ひもが片方解けていた。私はその隣に立ち止まり、横断歩道の青信号を点滅するまでじっと睨み続けた。車道を流れ始めた大型車両の轟音に負けないよう、声を張る。
「あのね。今日終わった後、何か予定ある?」
「いや、暇だよ。今日も敵情視察、行く?」
立ち上がった水沢君は膝を屈伸させると、無邪気そうにニッと歯を見せた。
停車する時のひときわ大きな揺れによろめき、何とか持ちこたえてホームに降り立った。どうやら、勝ってしまったらしい。階段の方へ歩きながら、うそでしょ、と思わず呟く。
「麻耶ちゃん」聞き慣れた声で呼び掛けられ、ビクリと肩が跳ねた。水沢君が隣に並んだ。
「今着いたの? 電車、同じだったのかな」
「みたいだね。全然気付かなかった」
いたたまれない気持ちを喉の辺りでグッと押さえ付け、水沢君に笑い掛ける。ついさっきまでの五駅間に心の中で繰り返し唱えていたことを思い出すと、顔が熱くなった。
練馬のハンバーガーショップでバイトを始めたのは半年前、高校に入って間もない頃だ。他校の二年生である水沢君は、不慣れな私の失敗をいつもさり気なくフォローしては「元気出していこう」と声を掛けてくれた。いつ頃からか、バイトの後には二人で寄り道をするようになった。敵情視察だなどと言ってバイト先のライバル店に入り、フライドポテトをシェアしたりする内に、想いは高まった。
そして私の一人遊びが始まった。スマホゲームの難易度が高い面を攻略している時。クイズ番組を観ていて、家族の誰かと私の答えが違っていた時。遠くのゴミ箱に向かって紙くずを投げようとしている時。日常のあらゆる瞬間に、私は心の中で小さな賭けをした。
『もしこの面を一発でクリア出来たら、水沢君は脈アリ』
『もし私の答えが正答だったら』
『もしこの紙くずがゴミ箱に入ったら』
賭けの結果には毎度うっすらと一喜一憂していたものの、花びらを一枚ずつむしってはスキキライを占うことと大差ない、という虚しさもあった。だから今日、電車の中ではちょっと冒険をしてみたのだった。こんな風に。
『もし電車から下りるまでどこにもつかまらずにいられたら、水沢君に告白する』
水沢君と連れ立って駅の中央口を出ると、進行方向の横断歩道の信号が珍しく青かった。駅前の交差点は車道の交通量が多いせいか、横断歩道が一旦赤信号になると長くて、いつもなら大抵ここで足止めされてしまうのに。
『もしこのまま立ち止まらずに交差点を渡り切れたら、告白は成功する』
そう思った瞬間、水沢君が急にしゃがんだ。
「ごめん、ちょっと待って」
彼がいつも履いている白いスニーカーの鮮やかな赤の靴ひもが片方解けていた。私はその隣に立ち止まり、横断歩道の青信号を点滅するまでじっと睨み続けた。車道を流れ始めた大型車両の轟音に負けないよう、声を張る。
「あのね。今日終わった後、何か予定ある?」
「いや、暇だよ。今日も敵情視察、行く?」
立ち上がった水沢君は膝を屈伸させると、無邪気そうにニッと歯を見せた。
駅への道を私はひたすら大股で歩いた。まだ九月だというのに、顔の表面は霜が降りたように冷たい。気持ちは嬉しいけれど、大学受験も控えているし、今は誰かと付き合う気はない。件のライバル店で私の告白を聞いた後、水沢君はそう言って両膝を掴み、頭を下げた。どこか芝居掛かって見える仕草だった。
「でも麻耶ちゃんと色々話すのは楽しいし、これからもこうやってバイトの後に寄り道するの、駄目かな? その、友達として」
座っていても私より背が高いくせに、水沢君は上目遣いに私を見た。その目つきを思い出すとまた憤りが募る。おのれ、と思いながら相手の言葉をきっぱりとはねつけられなかった自分にも腹が立つ。そして憤りや腹立ちの間から、正直な気持ちが泡のように湧いてくる。大学受験が終わるまで待ってみようか。友達のまま、様子を見てみようか。水沢君の気持ちが変わることに、今はまだ賭けたい。
駅前の交差点が近付く。横断歩道の信号は青い。いつから青いのだろう。これが最後の一人遊びだ、と稲妻のようにひらめいた。
『もしこの交差点を今度こそ立ち止まらずに渡り切れたら、私はまだ諦めないでいい』
横断歩道へと駆け出すその足がぐにゃりともつれた。体勢を立て直せず、地面に思い切り両手をついた。転ぶなんて何年振りだろう。痛みよりもショックの方が先に来る。
赤い靴ひもを結んだ白いスニーカーの足がおずおずと近付き、私はハッと顔を上げた。
「だ、大丈夫ですか?」
困ったように私を見下ろしているのは、見知らぬ人の顔だった。そのずっと向こう側で、横断歩道の信号が赤々と光っている。
「大丈夫です、すみません」平たく答えて立ち上がると、足首がみしりと軋んだ。気付けば手の平も膝もすりむけている。負けちゃった、と思った途端、鼻の奥がツンと痛んだ。
(了)
「でも麻耶ちゃんと色々話すのは楽しいし、これからもこうやってバイトの後に寄り道するの、駄目かな? その、友達として」
座っていても私より背が高いくせに、水沢君は上目遣いに私を見た。その目つきを思い出すとまた憤りが募る。おのれ、と思いながら相手の言葉をきっぱりとはねつけられなかった自分にも腹が立つ。そして憤りや腹立ちの間から、正直な気持ちが泡のように湧いてくる。大学受験が終わるまで待ってみようか。友達のまま、様子を見てみようか。水沢君の気持ちが変わることに、今はまだ賭けたい。
駅前の交差点が近付く。横断歩道の信号は青い。いつから青いのだろう。これが最後の一人遊びだ、と稲妻のようにひらめいた。
『もしこの交差点を今度こそ立ち止まらずに渡り切れたら、私はまだ諦めないでいい』
横断歩道へと駆け出すその足がぐにゃりともつれた。体勢を立て直せず、地面に思い切り両手をついた。転ぶなんて何年振りだろう。痛みよりもショックの方が先に来る。
赤い靴ひもを結んだ白いスニーカーの足がおずおずと近付き、私はハッと顔を上げた。
「だ、大丈夫ですか?」
困ったように私を見下ろしているのは、見知らぬ人の顔だった。そのずっと向こう側で、横断歩道の信号が赤々と光っている。
「大丈夫です、すみません」平たく答えて立ち上がると、足首がみしりと軋んだ。気付けば手の平も膝もすりむけている。負けちゃった、と思った途端、鼻の奥がツンと痛んだ。
(了)