第5回「小説でもどうぞ」最優秀賞 悪魔は見ている/吉田猫
第5回結果発表
課 題
賭け
※応募数242編
「悪魔は見ている」吉田猫
あんたは悪魔を見たことがありますか?
私はあるんですよ。あれはひどい奴だった。その悪魔と賭けをしちまってね。私はすべてを失い、家族も奪われました。おかげで一流企業に勤めていた私が今ではこんな場末の酒場で皿洗いですよ。それもこれも全部あいつのせいなのです。あれは間違いなく悪魔だった。間違いなくね……。
その男と出会ったのは初めて入ったあるバーでした。その日、上司から昇進の内定を聞かされてね。同期のライバルを出し抜いたことにニヤつきながら一人カウンターで祝い酒を飲んでいたのです。そこの隣にいたのがその男ですよ。私と同年代に見えるその男の身なりはサラリーマンのそれでしたが、安物のスーツに寄れたワイシャツとネクタイ。一流企業で出世を続ける私から見ると明らかに負け組に見えました。私は少しだけ見下した態度でその男と世間話をしたのですが、その男が突然こう言ったのです。
「ちょっと賭けでもしてみませんか?」
「賭け? 何を賭けるのです?」
「負けた方がここの飲み代を払う。そういうのはどうですか?」
その男はそういうとポケットからサイコロを二つ取り出し「単純に丁半博打といきましょうや」と言いました。
「いいでしょう。やりましょう」私は調子に乗ってその申し出を受けてしまいました。私が丁、その男が半。私が振ったサイコロは二六の丁。私の勝ちでした。
「まいったな」その男は頭を掻いていました。「勝ち逃げはいけませんね。もう一回だけお願いしますよ」とその男は言いました。
「いいですよ。何を賭けます?」いい気分の私はその男の顔を覗くように訊き返しました。
「じゃあ私は家と土地を賭けますよ。あなたはどうしますか?」
「それでは私は家族を賭けましょう。愛する妻と可愛い息子をね」
その男が振ったサイコロは四五の半。丁に賭けた私の負けでした。
「ああ負けた。ああ、家族を取られてしまう」
私はおどけて大笑いをしながら店のママさんに「この人にボトル入れといて下さい。私が払います」と高級なウイスキーを注文しました。そのときはそのぐらいしてもいいだろうと思ったのです。その男も、すみませんね、と言いながら笑っておりました。
なかなか愉快な夜だったと思います。その男が支払いをし、私がボトル代を払い、店を出たあと「もう一軒」と誘われましたが丁寧にお断りして家路に着きました。
家に帰ると電気が消えて静まり返っており妻と子供は既に寝ているのだと思いました。しかしそっと寝室のドアを開けてみると妻はいません。こんな時間にどこに行ったのだろう? 電話をかけても出ないし不安な気持ちが押し寄せてきました。妻と子供は結局翌日の朝になっても帰ってきませんでした。私はたまらず警察に駆け込みました。担当の警察官からは、もう少し待ってみては、と冷静に言われましたが私は一方的にあの男とのやり取りのことをまくし立てたのでした。
結局その後、妻と子供は帰ってきませんでした。警察の捜索も進展はないし、妻の友人や知人をたどって必死になって探しましたよ。だけどね、あるときから私はね、妻子を探すのをすっかり止めてしまったのです。なぜかって? 実を言うとそれから二年後くらいだったでしょうか。私は妻と息子、そしてあの男にもう一度会ったことがあるのです。
あれは確か昼間の新宿の繁華街でした。私の目に入ったのは人込みの中でこちらを見ているあの男でした。黒いコートを着ていました。唖然とし立ち止まった私との距離は五メートルくらいだったでしょうか。あの男は笑っていました。とてつもなく不気味な笑い顔でした。あれは人間の表情ではなかった。私は石のように固まってしまい動くことができません。そして私は見たのです。あの男の後ろに付き従うように立ち私を見ている妻の顔を。そこにあるのは穢れたものでも見るような冷え切った目でした。妻は妻でなくなっていたのかもしれません。そして彼女が手を繋いでいたのが既に幼児の面影を失った息子でした。それから彼らは動けなくなった私の横を通り過ぎていきます。私は僅かに動かせる首を回し目で彼ら追いました。そのとき妻と手を繋いだ息子が顔をゆがめ私を睨んだのです。不自然に釣り上げた口には小さな尖った歯が、目には金色に濁った瞳が見えました。
それ以降、私はすべてを諦めました。生身の人間にできることは限られていますからね。
私は何もかも嫌になり今ではこのざまです。だからあんたもうかつに賭けなんかしちゃあいけませんよ。すべてを失うことになりますよ、私のようにね。あんたは気づいてないかもしれないが、あいつは笑ってあんたのことを、いつも見てるんだから。
(了)
私はあるんですよ。あれはひどい奴だった。その悪魔と賭けをしちまってね。私はすべてを失い、家族も奪われました。おかげで一流企業に勤めていた私が今ではこんな場末の酒場で皿洗いですよ。それもこれも全部あいつのせいなのです。あれは間違いなく悪魔だった。間違いなくね……。
その男と出会ったのは初めて入ったあるバーでした。その日、上司から昇進の内定を聞かされてね。同期のライバルを出し抜いたことにニヤつきながら一人カウンターで祝い酒を飲んでいたのです。そこの隣にいたのがその男ですよ。私と同年代に見えるその男の身なりはサラリーマンのそれでしたが、安物のスーツに寄れたワイシャツとネクタイ。一流企業で出世を続ける私から見ると明らかに負け組に見えました。私は少しだけ見下した態度でその男と世間話をしたのですが、その男が突然こう言ったのです。
「ちょっと賭けでもしてみませんか?」
「賭け? 何を賭けるのです?」
「負けた方がここの飲み代を払う。そういうのはどうですか?」
その男はそういうとポケットからサイコロを二つ取り出し「単純に丁半博打といきましょうや」と言いました。
「いいでしょう。やりましょう」私は調子に乗ってその申し出を受けてしまいました。私が丁、その男が半。私が振ったサイコロは二六の丁。私の勝ちでした。
「まいったな」その男は頭を掻いていました。「勝ち逃げはいけませんね。もう一回だけお願いしますよ」とその男は言いました。
「いいですよ。何を賭けます?」いい気分の私はその男の顔を覗くように訊き返しました。
「じゃあ私は家と土地を賭けますよ。あなたはどうしますか?」
「それでは私は家族を賭けましょう。愛する妻と可愛い息子をね」
その男が振ったサイコロは四五の半。丁に賭けた私の負けでした。
「ああ負けた。ああ、家族を取られてしまう」
私はおどけて大笑いをしながら店のママさんに「この人にボトル入れといて下さい。私が払います」と高級なウイスキーを注文しました。そのときはそのぐらいしてもいいだろうと思ったのです。その男も、すみませんね、と言いながら笑っておりました。
なかなか愉快な夜だったと思います。その男が支払いをし、私がボトル代を払い、店を出たあと「もう一軒」と誘われましたが丁寧にお断りして家路に着きました。
家に帰ると電気が消えて静まり返っており妻と子供は既に寝ているのだと思いました。しかしそっと寝室のドアを開けてみると妻はいません。こんな時間にどこに行ったのだろう? 電話をかけても出ないし不安な気持ちが押し寄せてきました。妻と子供は結局翌日の朝になっても帰ってきませんでした。私はたまらず警察に駆け込みました。担当の警察官からは、もう少し待ってみては、と冷静に言われましたが私は一方的にあの男とのやり取りのことをまくし立てたのでした。
結局その後、妻と子供は帰ってきませんでした。警察の捜索も進展はないし、妻の友人や知人をたどって必死になって探しましたよ。だけどね、あるときから私はね、妻子を探すのをすっかり止めてしまったのです。なぜかって? 実を言うとそれから二年後くらいだったでしょうか。私は妻と息子、そしてあの男にもう一度会ったことがあるのです。
あれは確か昼間の新宿の繁華街でした。私の目に入ったのは人込みの中でこちらを見ているあの男でした。黒いコートを着ていました。唖然とし立ち止まった私との距離は五メートルくらいだったでしょうか。あの男は笑っていました。とてつもなく不気味な笑い顔でした。あれは人間の表情ではなかった。私は石のように固まってしまい動くことができません。そして私は見たのです。あの男の後ろに付き従うように立ち私を見ている妻の顔を。そこにあるのは穢れたものでも見るような冷え切った目でした。妻は妻でなくなっていたのかもしれません。そして彼女が手を繋いでいたのが既に幼児の面影を失った息子でした。それから彼らは動けなくなった私の横を通り過ぎていきます。私は僅かに動かせる首を回し目で彼ら追いました。そのとき妻と手を繋いだ息子が顔をゆがめ私を睨んだのです。不自然に釣り上げた口には小さな尖った歯が、目には金色に濁った瞳が見えました。
それ以降、私はすべてを諦めました。生身の人間にできることは限られていますからね。
私は何もかも嫌になり今ではこのざまです。だからあんたもうかつに賭けなんかしちゃあいけませんよ。すべてを失うことになりますよ、私のようにね。あんたは気づいてないかもしれないが、あいつは笑ってあんたのことを、いつも見てるんだから。
(了)