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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 サトシの夏休み/アピ

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作文・エッセイ
結果発表
小説でもどうぞ

第3回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 選外佳作

サトシの夏休み
アピ

 薄暗い駅の改札口を抜けて外へ出たサトシは、目のまえが急に明るくなって思わず瞬きをした。南風が挨拶をするかのように、汗ばんだTシャツを吹き抜けていく。

 きょうは小学五年生の夏休み最初の日曜日。サトシはこの日をずっと心待ちにしていた。背中の大きなリュックも苦にならない。これからタケちゃんの家に泊まりにいく。もうすぐタケちゃんに会えるんだ。

 桜が散りいそぐ今年の三月末、サトシの家族は隣町へと引っ越した。四年三組のクラスのみんなや担任の坂本先生と別れるのは悲しかったし、住み慣れた団地から離れるのも寂しかった。なかでも、同じ団地内に住んでいて、小さいころからいつも一緒だったタケちゃんと会えなくなるのは、体をちぎられるほどつらいことだった。

「会おうと思えば、いつでも会えるよ」

 引っ越しの日、見送りに来てくれたタケちゃんはそう言ってニッと笑った。でも、サトシは鼻をすすりながら「うん」と答えることしかできなかった。

 日差しの明るさに目が慣れてきたサトシは、あらためて駅前を見まわした。駅前は小さなロータリーになっていて、その中央からバス通りがのびている。通りの先にはタケちゃんと、かつてはサトシも暮らしていた団地群がある。

 ロータリーの右手には、数年前に大型スーパーができた。そのあおりを食らったのが、スーパーとバス通りの間にある『りんどう商店街』だ。めっきり人通りの減った商店街は、店主たちの思いをよそに、サトシたちにとっては格好の遊び場だった。

 久しぶりに商店街に足を踏み入れたサトシは、見知らぬ町に迷い込んだような気がしてふと立ち止まった。見慣れていた風景のはずなのに、なぜだろう?

 理由はすぐにわかった。商店街に入ってすぐにあったお団子屋さんが横文字の名前のカフェに変わっている。そのとなりの靴屋さんはシャッターが下りているし、靴屋の前の店は内装工事中で、来月ドラッグストアがオープンするというポスターが貼られていた。ここは以前なんの店だったろう? 思い出せない。

 さらに歩いていくと、タケちゃんとよく買い食いをした駄菓子屋も店を閉めていた。いつも声をかけてくれたおばちゃんの笑顔が心をよぎる。おばちゃんは元気かな。

 知らない間に様変わりをした商店街を歩きながら、サトシは自分がもうこの街の人間ではないのだと感じた。サトシがいた二〇五号室にも、すでに誰か知らない人が住んでいるかもしれない。

 もしかしたら、タケちゃんも新しい親友ができていたりするのかな……。

 サトシは、はじかれたように走り出した。汗が噴き出てくる。でも、走るのをやめると思いがあふれてしまいそうで、ひたすら走り続けた。

 商店街を過ぎて民家の間を抜けていくと、前方に懐かしい団地群が見えてきた。整然と建ち並ぶ姿は、どこかよそよそしくも見える。息が切れ、足も痛くなってきたけれど、サトシはタケちゃんが住んでいる六号棟を目指して走った。

 いつも遊んでいた児童公園を突っ切って、自治会館の脇を通り過ぎ、サトシが住んでいた十一号棟の前も止まらずに走る。中央広場にさしかかると、ようやく六号棟が間近に見えてきた。

 サトシは立ち止まって、タケちゃんが住んでいる三階を見上げた。三階の階段の踊り場のところに人影がある。……タケちゃんだ。

 タケちゃんはサトシに気づかずに、心配そうに遠くを見ている。前より髪が短くなって日に焼けた横顔は、なんだか自分が知っているタケちゃんじゃないみたいだ。サトシは肩を落としてうなだれた。目が痛いのは汗のせいか、涙なのかわからない。

「サトシ!」

 そのとき、サトシを呼ぶ声が聞こえた。視線を上げると、タケちゃんが笑いながら踊り場から体を乗り出して手を大きくふっていた。それは、以前と少しも変わらないタケちゃんの笑顔だった。

「タケちゃーん!」

 サトシはグイッと手で顔をぬぐうと、また走り出した。背中のリュックがゆれる。サトシの夏休みは、まだ始まったばかりだ。

(了)