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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 リコ以外ぜんぶ/砂猫

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作文・エッセイ
結果発表
小説でもどうぞ

第3回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 選外佳作

リコ以外ぜんぶ
砂猫

 リコは家が大嫌いだった。狭いアパートで部屋が二つしかなかった。ご飯を食べる部屋で両親が寝て、狭い方の部屋でリコと姉が寝た。リコの姉は、成長するにつれて、リコに対する態度が邪険になり、中学にあがって彼氏ができてからは、露骨にリコを邪魔者扱いするようになった。本を読むのが好きなリコは、学校から帰るとずっと家で本を読んでいるので、彼氏を呼びにくいからだ。リコはリコで姉が邪魔だった。口うるさいママがパートに出かけている午後五時までの間、ゆっくり本が読めるはずなのに、リコの少し後に帰ってくる姉は、大きな音で音楽をかけたりテレビを見たりするので、うるさくてたまらないのだ。

「本が読めないから、少し音を下げて」

 リコが頼んでも、姉は一蹴した。

「うるさいならどっか外で読めばいいじゃん」

 リコは家もいやだが、外も怖かった。家よりは静かだろと、公園で本を読んでいた時、野球のボールが飛んできて顔に当たったことがあるのだ。

 姉だけではなかった。リコ以外の家族はみんな常にうるさかった。大声でつまらない話しをしているか、常につきっぱなしのテレビからはきまって騒々しい番組ばかり流れていた。

 リコはよく同じ夢を見た。何もない真っ白の中に横たわっている夢だった。上を見てもどこを見てもただただ白しかなく、ふわふわして気持ちよく、静かだった。目覚めたとき、いつもの狭い部屋にいることに気づいてがっかりした。リコ以外ぜんぶ消えてなくなればいいのに。ため息をつきながらそんなことを考えた。

 ある日、姉と大げんかした。彼氏が来るから外に遊びに行けと言われたのだ。すごく寒い日だったので、リコが断ったら、姉は、急に怒りだしてリコが読んでいる本をひったくってリコに向かって投げつけて叫んだ。

「あんたなんか、消えてしまえばいいんだ!」

 口の悪い姉に常日頃から好き放題言われて慣れていたのだが、これはさすがにこたえた。リコは無我夢中で外に飛び出した。寒さも感じないほど気持ちが高ぶっていた。泣きながらあてもなく歩き回っているうちに、ふっと、火がともるようにある考えが湧き起こった。お姉ちゃんは、あたしが消えてしまえばいいと言った。あたしが消えるということは、あたしだけがあたし以外とは別の、空間というか、次元?に移行するということ、つまり、あたし以外のぜんぶが消えてしまうのと同じことになる。いつも空想している状況が現実になるのだ。

 さっそくリコは実行することにした。とりあえず、駅に行って、列車に乗った。どこか遠くの知らない場所に行けば、知っている人は誰もいないしまったく見たことがない景色が広がっているはずだ。そうすれば、お姉ちゃんをはじめとする家族が含まれた世界から、あたしが消えたことになるのではないだろうか。

 暖房がきいた車内で、リコはいつしか眠り込んでしまった。また例の白い夢を見た。

 目が覚めて、リコは愕然とした。窓の向こうに、すべてが真っ白の、夢で見たそのままの景色が広がっていたのだ。次にとまった駅でリコは列車を降り、誰もいない改札を出た。白いものは降り積もった雪で刺すように空気が冷たかったがリコの心は浮き立っていた。人の気配すらなく建物も何も見えず、遠くの方が灰色の空を背景にこんもりと盛り上がっているのは山だろう。家から相当離れた場所のようだ。いくら歩いても白以外なかった。リコは白い中にごろりと横たわった。冷たいはずの雪が全身をあたたかくやわらかく包みこんだ。リコ以外ぜんぶ消えてしまった世界でこの上ない幸福感に包まれながら、リコの意識は次第に遠のいていった。

 次に目覚めたとき、リコはベッドに横たわっていた。起き上がろうとしたが、体が動かない。かろうじて動く首だけを回して点滴のチューブが目に入る。どうやら病院らしい。姉と寝ている家の部屋よりも狭い部屋だった。遠くからかすかに聞こえる人の声がどんどん大きくなってきて、まさかと思うとドアが開き、のしかかるように目前に現れたのは姉の顔だった。パパ、ママ、リコが目を覚ましたよ。両親の顔がまたにゅっと現れた。もう大丈夫だよ。怖かっただろう。昨日はひどいこと、言って、ごめんね。姉はなぜか泣いている。息がかかるほど近くにある三人の顔から逃げるように壁を見るリコの瞳から涙があふれた。だいじょうぶ?。どこか痛いの。怖かったんだね。リコが泣いているのは痛いからでも、怖いからでもなく、消えたと思ったリコ以外のぜんぶがよみがえったことが悲しいだけなのに、パパもママも姉も、そんなこと、思いもよらない。

(了)