高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 けじめ/朝霧おと
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朝霧おと
「結婚する?」と。
助手席の玲子は「え? まあ、いいけど」とぶっきらぼうだ。
別に結婚をしたいわけではない。ただこのままつきあっていてもデート代がかかるばかりだし、それならいっそ籍を入れ、お互いが働いた分は共有して使ったほうが利口な気がしたからだ。
たぶん玲子もそう乗り気ではないのだろう。ぼくが「嫌ならいいけど」と少し不貞腐れて見せると、彼女は体をねじり運転席の僕の目を見据えた。
「あのね、翔ちゃん、結婚を申し込むってことはそうじゃないのよ。何日も何日も考え、ようやく決心をして、受け入れてもらえるか受け入れてもらえないかドキドキしながら待つものなの。それがプロポーズの定義」
こいつ、何言ってんだ。お前が言うな。
僕は心の中で毒づいた。
そもそも玲子とはマッチングアプリで知り合ったのだ。つきあってまだ一年、彼女のことをそう知っているわけではない。ルーズでちゃらんぽらんなところがこれまでつきあってきた女性と違い、そこが逆に新鮮だった。
彼女なら、結婚してほしいとか結婚前提で、などとめんどくさいことは言わないだろうと軽く考えていたところもあった。
時間も金銭面もルーズ、世間の常識や価値観なんてどうでもいいというタイプ。彼女といると、居心地がいいのは確かだった。
結婚もその場のノリでできそうな気がしたが、どうもそうではなかったらしい。僕は「結婚する?」と言ったことをすぐに後悔した。
「ま、いいけどね。翔ちゃん、恥ずかしがりやだから許す」
許す? どの口が言ってるんだ。
「いや、嫌なら別に……」と、僕が口を開きかけると、玲子は「今度、うちの両親に会ってよね」とぴしゃりと言った。
「うちの親に、娘さんと結婚させてくださいと言って頭を下げるのよ。それがけじめってこと」
暑くもないのに僕の背中に汗が吹き出た。結婚するにあたってついてくるその他もろもろのことなど考えてもいなかったからだ。
その後、玲子は何度もけじめというワードを使った。たぶんルーズな玲子が周りからさんざん言われてきたのだろう。
あれよあれよと言う間に結婚へのカウントダウンが始まった。
まず玲子の両親への挨拶からだ。父親はサラリーマンと聞いていたのに、刑事だと初めて知ったのもその日だった。容疑者を見るような父親の目に震えあがった。
「もちろん結婚式はするんだろう? 最近は入籍だけで済ますものも多いようだが、やはりきちんとけじめはつけなくちゃね。顔合わせはいつごろがいいかな」
今ならまだ逃げられる、いやもう遅い。
心の中は葛藤で吹き荒れていた。
僕の両親はアーティストで浮世離れした人たちだ。放任主義の中、自由に育ててくれたことには感謝しているが、世間の常識と少しずれている。今思えば玲子に魅かれたのは母に似ていたからかもしれない。
結婚しようと思ってるんだ、と母に言うと「あら、おめでとう。地獄への第一歩だね」と脅すだけだ。相手はどんな子とか、式はどうするのとか、どこに住むのかとか聞いてこない。ましてや玲子の両親に関してはまるで無関心だった。
「で、あちらのご両親が会いたいって……」
「よろしく言っといてよ。うちはそういうこと苦手だから」
そう来ると思った。「一回だけでいいから会ってよ。ほんと一回だけ。彼女も会いたいって言ってるから」
しぶる母を説き伏せるのに一ヶ月かかった。
やりたくない結婚式に新居探し。どれもこれも玲子の要望が多いためなかなか進まない。
もうやめ、と言えればどれほどすっきりするだろう。それでもひとつひとつクリアし、やっとおおよその見通しがついたころだ。玲子がはしゃいだ声を上げた。
「新婚旅行はどこにする?」
「は? 新婚旅行? 行くの?」
「当たり前でしょ。けじめよけじめ。やっぱり定番のハワイかな。ヨーロッパも捨てがたいよね」
今さら新婚旅行もないだろう。この一年で費用は全部こちら持ちで箱根と京都へ行った。それで十分ではないか。
「新婚旅行は夫婦になるっていうけじめだよね。行けるときに行っておかないと、子どもができたら当分行けなくなるもの」
子ども……。
僕は悟った。もう後戻りはできないと。
(了)