高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 形見/松本タタ
松本タタ
いい天気だし、三連休の初日だし、無理もない。見晴らしのよいところには、けっこうな数のペンチが設けられているが、すべてふさがっていた。
とにかく、腰を下ろせるところで昼飯を……と首を巡らせていると、強い風にあおられ、足元にピニール袋が絡みついた。
「あ、すみません」
男がついと駆け寄ってくる。三十代の後半くらいか、なかなかの男前だ。鮮やかなオレンジ色のスニーカーが目に入る。イケメンが履くと、こうも似合うものなのか。
「いえ、大丈夫ですよ」
鷹揚に返し、なおもきょろきょろしていると、男が言った。
「これからお昼ですか」
「ええ」
「よかったら、どうぞ」
自分が座っているベンチへ促す。ありがたい。おお、しかも美女がいるではないか。
丁寧に礼を言い、男のとなりに腰を下ろした。雰囲気からして、夫婦だろう。おとなしげな和風美人だ。緑茶のペットボトルを両手に包んでいる。
ナップザックから、コンピニで買ったおにぎりを取り出す。飲み物が、細君と同じだった。なんとなく、亭主に勝利した気分になる。
「お一人なんですか」
コーヒーを飲みながら、男が聞いてきた。
「ええ。定年後の、気ままな一人旅ってやつです。女房も誘ってるんですけど、なぜか結局一人旅に」
つねに用意している冗談を披露すると、二人は笑った。さらに気をよくした私は、男の足元に目をやった。
「しかし、若い人はおしゃれなスニーカーを履きますねえ」
すると男は、視線を落としてから言った。
「ありがとうございます。じつは、これ……、友人の形見なんです」
予想外の答えに、おにぎりを持つ手が思わず止まった。
「えっ……。おともだち、の?」
「はい。同期入社のやつでした」
「それは、お気の毒に。まだお若いのに」
「会社の帰りに酔っ払って、渡る必要のない歩道橋をわざわざ通って、階段から落ちましてね。運が悪いというか」
悲劇のような喜劇のような話だが、美人の細君も目を伏せている。おにぎりの包装をあけるわけにはいかなかった。
「そうなんですか……」
「ええ。あちこち行くのが好きなやつだったんで、新しく買った靴がまっさらなままでは未練が残るんじゃないかと、彼の奥さんに言われましてね」
「それで、形見分けを?」
「ちょうど、足のサイズも同じでしたから」
「なるほど。おともだちの代わりに、あなたがいろんなところに旅をしていらっしゃる」
「まあ、来月が一周忌なんで、まだまだこれからですが……」
「いや、なによりのご供養ですよ。おともだちもよろこんでいるでしょう」
「そうだといいですけど」
男は笑った。話が明るいほうへ向かったので、私もホッとした。
「お優しい、ご主人ですね」
細君にも声をかけると、少し恥ずかしそうにハイ、とうなずいた。うむ、好ましい。
男が、コーヒーの残りをグッとあけた。
「それじゃ、僕たちはお先に失礼します」
荷物を持って立ち上がる二人に、あわてて頭を下げる。
「どうも、ありがとうございました。これからも、その靴でよい旅を」
「ありがとうございます。そちらも、お気をつけて」
気持ちのよい別れのあいさつを交わし、仲睦まじいうしろ姿を見送ってから、おにぎりの包装をパリパリとはがしにかかる。
「美談だなあ。いや、美談だ」
私は何度となく、つぶやいた。おかかの甘さが心地よかった。
オレンジ色のスニーカーを履いた男が、ニヤリと笑う。
「さすがに言えなかったな。やつの形見はこの靴だけじゃなくて、きみもなんだって」
(了)