公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 空の旅へ/藤村綾

タグ
作文・エッセイ
結果発表
小説でもどうぞ

第3回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

空の旅へ
藤村綾

「今度の現場さ、鹿児島なんだよ」ひさしぶりに修一さんにあうなりそういわれ、え? 鹿児島ってあの鹿児島なの? と聞き返してしまった。ほかにどんな鹿児島があるんだよと彼は笑いながらわたしの頬をつねった。痛いよというもののまるで痛くなどはなくむしろ嬉しくて仕方がなかった。とゆうかあえただけでもう胸がいっぱいいっぱいで背中に汗をかいていた。修一さんはわたしが勤めている建築会社の現場監督だ。一級建築士と施工管理士の資格を持つなんにかいる監督の中でもひどく優れている人材であり、そしてわたしの憧れのひとでもあり、もっといえば好きになってしまったひとでもあり、しかし、左の薬指には銀の輪っかがしっかりとはまっている既婚者でもある。既婚者……。奥さんがいるひと。だから決して好きになってしまったことだけは悟られてはならないのだ。

「いつ決まったの? 知らなかったよ」きのうと即答し、あさって現調にいってくると真顔でいう。現調とは現場の調査のことで次に入る現場の下見といったふうだ。あさって! あまりにも急だったのでびっくりした声を上げる。「そんなおどろくなよ」修一さんは白い歯をみせてはははと笑った。「つ、ついってってもいい?」心の中で叫んだ声がつい口からこぼれ落ちてしまった。金曜日だし、えっと、わたし、鹿児島いってみたいし、え、そうそうあれだあれ。焼酎が美味しいっていうでしょ? だから。ね! 遊びにいくんじゃないんだ。そういわれることは百も承知だったし、泊りがけになることもわかっていた。けれども修一さんから出た言葉は意外すぎる言葉だった。「別にいいんじゃないか。岩瀬さんがいきたいなら。俺も、半分は旅行気分なんだよな」会社の中にはわたしと彼しかいない。現場から現場に。いつもそのような感じなのでこうやってあうこと自体が偶然だったし、鹿児島のことだってきょうあわなかったらなにも知らずに月曜日を迎えていた。

「チケットだけは手配できるから」時計は一八時半を過ぎている。十月になり急に暗くなる時間がはやまった。「は、はい。ありがとうございます」自分の分は経費で落とせるけれどわたしの分はもちろん無理だし、チケット二枚ということに対しだれかに聞かれたら嫁といったというという。ふたりきりで。それも泊まりで。それに対して修一さんはなにもいわないし、聞きもしなかった。ほんとうに旅行にいきたいだけの事務員扱いをされたのだろうか。それとも……。まさかね。わたしは首を横にふる。じゃあ、と集合時間と集合場所と持っていくおやつ(小学校の遠足じゃないしと笑った)を指定されて、お先にと笑顔を向けて修一さんは帰っていった。当日は景気よく晴天だった。修一さんの車で空港までいき、搭乗時間まで待ち、飛行機に並んで座った。いつも作業着を着ている修一さんしかみたことがなかったから、私服の彼がとうてい修一さんだということがにわかに信じられなくて余計に緊張してしまっていた。窓際に座っていたわたしはじっと睨むように景色ばかりみていた。「……、景色だろ?」「え?」その声に振り返るとすぐそこに修一さんの顔があり、わっ! と声をあげ、おどろいてしまった。「あ、す、すみません。えっと、なにかいいましたか?」なにかいいかけた気がして語尾を上げた。とにかく顔が近かった。肌がつるんとしていて目が少しだけ茶色がかっていた。まだドキドキをしている。「あ、いや、」修一さんはそこで言葉を切る。なんだろう? 黙ったまま動かない。わたし空の上でいま、わたしと修一さんだけがみつめあっている。「雲ばっかりだろって。外みても同じ景色ばかりだろって。そういったんだ」そんなこと? とはいわないでおいた。

「わたし、初めてなんです。飛行機に乗るのが。だから景色が雲ばかりでもまったく飽きないんです。不思議なんです。こんなに重たい物体が浮いているのが。ワクワクするっていうか……」浮立つような顔と声で饒舌に喋ったから修一さんはそれに対してびっくりしていた。「そっか……。はじめての空の旅がこんなおっさんで申し訳なかったなぁ」修一さんはそういい頭を掻いた。いや、違うんです! 修一さんとこうやってはじめて空の旅ができたなんて逆に幸せすぎてもう頭の中がパンクしそうなんです! 「そ、そうですよぅ! はじめての旅が既婚者のおっさんだなんて。わたしのはじめての責任をとってもらいますよ!」まるで反対のことが口からスラスラと滑るように出てくる。ふと、気を抜けば涙が溢れそうだった。「責任かぁ」責任かぁともう一度つぶやき、あ! そうだ。といいことをおもいついた顔をした修一さんがいったことは結果的にわたしにとって至極真っ当でもありけれど悲しいことであった。「ビジネスホテルの部屋さ、岩瀬さんの部屋だけは一番高い部屋をとってあるんだよ」当機は着陸に備え高度を下げてまいります……、機内にはアナウンスが流れ出し、修一さんがシートベルトに手をかけようとしている。

(了)