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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 母の旅/森千鶴

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第3回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

母の旅
森千鶴

 あれは、わたしが小学五年生のときだった。

 母が三日間ほど、いなくなった時があった。何のまえぶれもなく、突然に、母は三日間家に帰ってこなかった。父も祖母も、母の行方を必死になって探した。そして警察に捜索願いを出そうかというときになって、母は帰ってきた。

 母が帰ってきたのは夜中だったから、わたしは母がどんな姿で帰ってきたのかを、父や祖母は母をどんなふうに迎えたのかは知らない。

 そして、母がなぜ、どこに行っていたのか、それは子どものわたしには何ひとつ語られなかった。母も父も祖母も、何もなかったように振る舞い、それからの毎日も何もなかったように過ぎていった。

 弟の尚人は、まだ四才だった。弟がもう少しわたしと年が近かったら、ふたりでそのことについて話したり、母に尋ねてみようということになったかもしれない。けれど、それはもうわたしひとりの夢の中の出来事のように扱われ、二度と口にしてはいけないことになってしまったのだった。

 母は今わたしの目の前で眠っている。よく眠る。認知症の症状はあるが、だいたいは穏やかで、手がかからないのだと尚人は言う。 

 コロナの感染拡大があり、一年ぶりに母に会いに来た。

 わたしは母に、あの三日間のことを聞こうと思っていた。聞こうと思って母に会いに来た。どうしてそう思ったのか、何かきっかけがあったわけではない。でもわたしは聞くべきだと思ったし、知りたいと思った。それはずっとわたしの心の中にわだかまりとして残っていることだから。

「理香子か……」

 目覚めた母は、わたしの顔をみつめた。

 わたしの名前を憶えていてくれたことに、ほっとする。

「お母さん、ずいぶん久しぶりやね。なかなか会いに来れなくてごめんなさい」

 母は起き上がって、ベッドの上にすわった。「尚人は仕事で忙しいから、ちあきさんにはほんとうに世話になってる」

 母のその言葉にはひとつの嘘もない。

 父が死んでからはひとりで暮らしていた母だったが、家の中で転んでケガをしてからは、弟夫婦が同居してくれるようになった。母はまだなんとか身の回りのことはひとりでできるし、そういうところで手はかからない。

 頑固なところもある母は、認知症がすすむことを心配して外に連れ出そうとする弟夫婦の誘いはかたくなに断わって、ひとりで部屋で過ごすことが多いらしい。昼寝もよくするそうだ。

 母のベッドには小説の本が何冊か置かれていた。わたしと母は、最近読んだ本の話をした。母は読んだ本のことをよく覚えていて、うれしそうに話した。以前の母と少しも変わっていない。

「今度映画に行こうか」

 その誘いには、母は静かに首をふった。

「ねえ、お母さん」

 わたしは、あの出来事について尋ねようと思った。どんなことがあったとしても、もう時効だろう。

「わたしが子どもだったとき、お母さんが家に帰ってこなかったことがあったでしょ」

 わたしはできるだけ、軽い感じで聞いてみた。

「そんなこと……、そんなことがあったかねえ」

 母の顔が紅をさしたように明るくなった。「好きな人ができたんだよ」

 母はこともなげにつぶやいた。

 ああ、そうだったのか。わたしがずっと抱いていた予想は当たっていた。

「好きだった人と旅をしたのよ」

 母は、はにかんだように笑う。

「今だったら、理香子は許してくれるよね」

 時効だと思っていたが時効ではなかった。あのときの、母がどこかに行ってもう帰ってこないのではないかという不安がよみがえる。

「お母さんにねえ、そんなことがあったんだ」

「誰にも話したことはないんだよ。初めて理香子に話すことなの」

 母が話すことは、ほんとうのことなのだろうか。わたしは疑いたくなった。父も祖母もほんとうに知らなかったことなのだろうか。

「だったら、よく帰ってこられたよね。帰ってきたとき、お父さんやおばあちゃんには何て言ったの」

「それは秘密だよ」

 母は少女のように微笑んだ。

 しばらくしたら、きっと母は今日のことも忘れてしまうのだろう。

 そして遠い遠い日のことは、夢のなかの出来事になるのだろう。

(了)