高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 真珠/香久山ゆみ
香久山ゆみ
いわゆる「本物」の、アコヤ貝を母貝とした「本真珠」。一方、湖など淡水で採れた「淡水パール」や、人工的に塗料を塗り真珠のように見せた「貝パール」。本真珠とそうでないものとは、値段が数倍も違ったりするが、同じデザインで仕立てられていると、私には同じものに見える。粒の形や色艶、輝きについて説明してもらうも、首を傾げるばかり。
説明を聞きながらだと、何とか違いを見分けられるが、さて次は自力でと言われると、もう無理。どれも同じに見える。けれど、社交界に出るような「本物」のマダムなら、一目で見抜いてしまうものなのかしら。あらいやだ、あの奥様は淡水パールなんてつけてらっしゃるわ、なんて。いやいや、一目で見抜くような本物のマダムなら、そんなことで人を見縊ったりしないはず。微笑ましく見守ってくれるものだろう。ということで、決めた。
随分悩んだけれど、結局淡水パールのネックレスを買うことにした。違いの分からない私が無理したって、もったいないもの。
そう言うと、隣で待っていた主人は「そうか」と一言、私の手からひょいとネックレスを取って、「これくらいなら買ってやるから、外で待っとけ」と、奥のレジカウンターの方へすたすた行ってしまった。私は出しかけた財布をしまい、言われた通り、店の外に出て、ぼんやり海を眺めていた。
鳥羽の海。向こうに真珠島が見える。新婚旅行で来た。見合い話がまとまってからはとんとん拍子に事が進み、結納、披露宴まであっという間だった。先週式を挙げたのが、もう随分前の気がする。誠実そうな人だと思い結婚を決めたけれど、実際には、日が浅くてまだ彼のことはよく分からない。袖を引っ張ってまで真珠の専門店に入ったのも、「似合ってる」なんて言葉を期待していたのに……。
そんなことを考えていると、主人が店から出てきて、袋を私に差し出す。「ありがとう」と受け取って、ふと軽口を言ってみる。
「ねえ、いつか本物を買ってくれる?」
小首を傾げてみると、主人はふいと海の方へ目を遣り、「そうだなあ……」と呟いただけ。俺がいつか君に本物を持たせてやる、くらいのことを言ってもらいたかった気もするが、しかし、無責任なことを言わない所が良いのだと思い直し、二人で海を眺めた。梅雨時にも関らず、どこまでも青く美しい空だった。
「へえー、お母さんたちにもそんな甘酸っぱい時代があったんだねえ」
娘がいたずらっぽく笑う。黒のワンピースが似合う様子に、娘も大きくなったものだと、感慨深い。
「わざわざ子供に話す事でもないでしょう」
なのに、話す気になったのは、今日という日だからかもしれない。自分の首に掛けたネックレスにそっと指を触れる。あの日、主人に買ってもらった真珠のネックレスだ。
「結局、それっきり、お父さんから宝石を買ってもらうこともなかったけどね。あのあとすぐにあなたを授かって、生活のことでそんな余裕なかったもの」
すると、娘が眉根を寄せて首を捻る。あら、何か気に障ることを言ってしまったかしら。もしかしたら、あんたのせいで贅沢ができなかったという嫌味にとられてしまったろうか。
「でも、私とても幸せだったのよ。お父さんとあなたたち、愛する家族に囲まれて。本物の真珠を貰うよりも、ずっとずっと幸せ。特別贅沢はできなかったけれど、これが私の人生の最高の幸せだって、胸を張って言える」
そこまで言っても、娘の表情はいっそう難しい。不安になる。私は幸福だと思っていたけれども、独りよがりだったのだろうか。そういえば、主人から「愛してる」と言われたこともない。だから、本物の真珠をくれなかったのか。思わず主人に縋る目を向ける。が、
「お母さん」
と娘が真っ直ぐに私を見据える。
「そのネックレス、ちょっと見せてくれる?」
思わぬ申し出に、戸惑いながらもネックレスを外して渡す。娘はそれを受け取り、真剣な眼差しで手許でなにやら確認している。しばらくして、娘が深く息を吐いた。そっと私の方へ返したネックレスを、受け取る。
「お母さん。そのネックレスね、本物だよ。本真珠のネックレス」
娘が柔らかく笑う。デパート勤務のとびきりのスマイルで。
私は驚いて手の中の真珠を見つめる。どれだけ見つめたって、やっぱり私には本物かどうかなんて分からない。けれど、新婚のあの頃に、この本真珠のネックレスを買うことがどれだけ大変だったかということは、分かる。
「あなた」
思わず呼掛ける。祭壇に飾られた遺影の中の主人は優しく笑っている。私の目からは、パールのような粒が、ぽろぽろと零れ落ちた。
(了)