高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 宇宙の旅/巣々木尋亀
巣々木尋亀
午後6時40分過ぎ。ツトムはスマホ片手に、いつもの公園のベンチで出前配達の注文が入るのを待っていた。濃紺の空には中途半端に欠けた月が輝いている。
90歳の元ハリウッドスターを乗せたロケットはどの辺りを飛行するのだろうか。ツトムがそんな事を考えていると、スマホの振動が注文の入ったことを知らせた。
受け取り先はインドカレー専門店”ガンジス”だった。ツトムがその店から注文を受けるのは初めてではなかったが、客として店に入ったことはなかった。ツトムは日本のインドカレーがあまり好きではなかったし、日本に居る間はなるべく日本食を食べるようにもしていた。節約のための自炊も兼ねていたのだが、ご飯と味噌汁に鰯や鯵の干物、それに梅干しや納豆といった取り合わせが基本のパターンだった。その代わり、外国へ行ったときはその国の料理を存分に楽しむ。それがツトムの旅の楽しみ方だった。
新型コロナの影響で仕事がなくなるまで、ツトムはフリーランスで外国人向けのツアーガイドをしていた。契約した旅行会社から紹介される顧客は、純粋な観光客であったりビジネスの接待であったり様々だったが、仕事さえあればそれなりの収入になった。そうやって稼いだ金で、一年の3分の1ほどは自分が海外を旅行をしたり、物価の安い国に長期滞在したりして過ごす。そんな暮らしを30歳をとっくに越えた現在までもう十年以上続けていた。ところがこの2年ほどぱったりと仕事は途絶えてしまい、以前から暇なときに使っていた登録制の出前配達のアルバイトと、貯めていた旅行資金を崩して、なんとか生計を維持していたのだ。
公園から”ガンジス”までは、中古で買った銀色のロードバイクで何回か信号を無視し、4、5分で到着した。「いらっしゃいまっせー」自動ドアが開くと、白いマスクを付けた、外国訛りのインド人らしきウェイターが振り向いた。ウェイターはツトムを見るとすぐに「ちょっと待ってて」と指先で合図し、厨房のあるカーテンの奥に入っていった。
店内に客の姿はなく、隅の方に置かれた子供の背丈ほどもある象の木彫りにはうっすらと埃が積もっていた。ほどなくしてウェイターが料理の入った容器を抱えて、カーテンから出てきた。
「ナン、カレー、タンドリーティキン、サービスのラッシー」
ツトムはウェイターから個別に袋詰された容器を受け取り、配達用のサイコロ型リュックに丁寧にパッキングした。「お預かりします」ツトムがパッキングを終えて一礼すると、ウェイターは目だけを使ってニッコリ笑った。
インドカレーの配達先は、住宅街から少し離れたところにある建築会社の資材置き場だった。かなり広い敷地にはエンジ色に塗られた巨大な鉄骨が積み上げられていて、その先に、水銀燈に照らされた2階建てのプレハブが青白く光っていた。
鉄の階段を上がりインターフォンのボタンを押すと、ガラス越しにカーテンが開き、水色のつなぎを着た小柄な女性が顔を覗かせた。ネットで打ち合わせでもしていたのだろう、頭にはマイクのついたヘッドセットを付けていて、ツトムの姿を見て、あわてて顎にかけたブルーのマスクを引きずりあげた。
ツトムが無言でスマホの出前アプリの画面を向けると、女性は頷いてアルミサッシを開け、無言で料理を受け取り、かるく会釈して再びアルミサッシを締めた。まるでパントマイムのような一連の動作は、推奨されているコロナ対策の一環だ。相手が声を発するまで配達員からはなるべく話しかけないことが、いつの頃からかマナーとして定着したのである。料理は運んでもウィルスは運ばない。それがコロナ禍における出前配達員のキャッチフレーズだった。
午後7時15分過ぎにツトムは公園のベンチに戻った。スマホを開いたが出前配達の注文は入っていない。ネットニュースが、90歳の元ハリウッドスターを乗せたロケットは、短い宇宙旅行を終え、無事に宇宙から帰還したと告げていた。
宇宙旅行にパスポートはいるのだろうか。ツトムは90歳になった自分がロケットの窓から地球を眺めているところを想像しながら、そんなことを考えた。
(了)