公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 本州最南端の地を目指して/楠守さなぎ

タグ
作文・エッセイ
結果発表
小説でもどうぞ

第3回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

本州最南端の地を目指して
楠守さなぎ

「おっいしーい!」

 つけっぱなしにしていたテレビから、女性の高い声が響いた。虚ろな目を向けると、笑顔の女性タレントが画面いっぱいに映っている。大きな口で彼女がかぶりついているのはマグロのカツを挟んだ、マグロバーガーという物らしい。続けて紹介される、本州最南端の地。青い空と緑の草原。その景色を見て、私の心は決まった。ここを私の最期の場所にしよう。

 恋人の和人の浮気が発覚したのは、先週のことだった。予定していた休日出勤がなくなったので、サプライズのつもりで彼の部屋を訪れたら、ベッドの中に恋人と見知らぬ女の裸を見つけたという最悪の展開。私にできたのは、二人に向かって合鍵を投げつけて逃げることだけだった。

 それから今日まで、和人からの連絡はない。悲しみと怒りの波に翻弄されて、疲れ切った私が辿り着いた答え。それは復讐だった。和人に対する恨みつらみを書き残し、自殺する。和人への怒りと私自身の悲しみを同時に解消できる、とても良い方法に思えた。どうせ死ぬなら、美しい場所が良い。

 いつもどおり眠れない夜を過ごした翌朝、私は始発の電車に乗り込んだ。自分の住む街がどんどん遠くなり、見慣れない景色が流れていく。ぼんやりとした頭の中に、ふっと和人の声がよみがえった。

「どうせお前には無理だって。ほら、どいて」

 初めて二人で行った京都旅行での、ろくろ体験の記憶だ。初めての経験にもたつく私をイライラした様子で押しのけて、和人はあっという間に湯呑を仕上げてしまった。

 いつもそうだった。要領が悪い私を、和人がいつだって助けてくれたのに……。

 零れそうになった涙を堪えようと顔を上げると、周囲の人が次々に電車から降りていくところだった。もう着いたのかと、慌てて後を追う。私が降りた直後に、背後で電車の扉が閉まった。ギリギリセーフ、と駅名の看板に顔を向けた私は、そのまま凍りついてしまった。そこは降りるべき駅ではなかったのだ。

 がっくりと肩を落としたものの、私はすぐにスマホの検索画面を開いた。すぐに来るだろうと思った次の電車は、なんと一時間後だ。全身から力が抜けるのを感じながら、私は駅の片隅に置いてあるベンチに腰掛けた。

 やっぱり私は、一人では何もできないんだ。そんな無力感に襲われる。自分にとって最後の旅だというのに、最後まで失敗し続けるのか。

 溜息とともに空を見上げると、あまりにもきれいな青空が広がっていた。こんなふうにゆったりと空を見上げるのはいつ以来だろう。目を閉じると、心地よい風も感じられた。すさんだ心が少しずつ緩んでいく。どうせ一時間あるのだから、駅から出てみよう。長距離の切符なら途中下車できることは、以前の和人との旅行から知っていた。

 改札を出ると、神社への案内板が目に入った。今更願掛けするようなことも無いけれど、心惹かれるものがあって、私はその方向へ歩き出した。

 行き着いた神社は、地元の人に親しまれていそうなこぢんまりとしたものだった。ただ、樹齢何百年もありそうな大木がそびえ立っているのが目を引いた。自然と足がそちらの方に向く。

 木の下からなんの特徴も無い神社を見ていると、今年の初詣が思い出された。深夜の神社で偶然、和人の友人と遭遇したのだ。恋人と一緒にいるのを冷やかす友人に対して、和人が言った言葉を今も覚えている。

「家事だけは得意だからな、ブスだけど」

 馬鹿みたいに笑い合う和人と友人を前に、私は黙ってにこにこ笑う事しかできなかった。今回の浮気もそう、私は和人に気持ちを伝えることもできない。

 俯く私の頬を、そよ風が撫でた。見上げると、木漏れ日が降り注いでいる。ゆらゆら揺れる光を浴びていると、温かい何かが体の中に満ちていくような感覚があった。

 それから駅に戻った後も強風の影響で電車は遅れ、乗り換えのタイミングも合わず、時間ばかりがどんどん過ぎていった。まるで私が目的地に着くのを、見えない力が阻んでいるように思えた。ようやっとバスでその地に辿り着いた時には、夕方になっていた。

 海に向かって傾斜のある、芝生の広場。そこに立つと、夕日が沈んでいくのが見える。赤い光が目に刺さって、視界が歪んだ。

 ここまで来れた。その言葉が、胸の中に浮かび上がってきた。和人から離れてここに至るまでの道のりで、もはや私には分かっていた。一人では何もできない、なんてことはない。私はたった一人で、ここまで来れたじゃないか。私は微笑みながらスマホを取り出して、和人の連絡先を削除した。

(了)