落選供養いたします。 今回は、3作も出しておきながら、すべて「現代アートを小バカにした内容」でした。入賞作を読ませていただいて、私にはこんな失礼なものしか書けなかったことを、深く恥じ入りました。芸術がわからないので、苦し紛れだったのです。今後の戒めのために、あえて落選供養いたします。 「わからない」 地上に出ると、初夏の日差しが思った以上にきつく、彩子(あやこ)は、日傘を持ってこなかったことをちょっと後悔しながら歩き出した。ネットの情報では地下鉄駅から徒歩十分と書いてあったが、迷うともっとかかるのではないかと不安になった。 彩子は極端な方向音痴で、地図を見るのも苦手だった。友だちに勧められて使い始めたスマホのナビも、いったいどっちへ向ければいいのかわからなくて、スマホをぐるぐる回して、その挙句、行ったり来たりしてしまうのだ。 案の定、大きな交差点で、どっちへ行けばいいのかわからなくなった。 右? 左? 真っすぐ? 泣きそうな気分になってスマホをぐるぐる回していると、 「どうされました? どこへ行かれるのですか?」 爽やかな感じの男性から声をかけられた。 「あっ、はい、県立美術館へ行きたいのですけど、迷ってしまって」 彩子は自分の頬が赤らむのを感じながらそう言った。 「それでしたら、右ですよ。右に真っすぐ行って、美術館の看板を左に曲がればすぐです。僕も向かっているのです。ピカソ展ですよね。よろしかったらご案内しますよ」 そう言った男性の笑顔が素敵だった。 「あっ、ありがとうございます。でも大丈夫です」 「そうですか。では、お先に。気を付けて」 男性は軽く会釈をすると、もう振り返りもせずに彩子に教えた方へと向かった。 彩子はピカソが好きだった。ピカソと言えば、誰もがイメージするような抽象画ももちろんいいと思うが、彩子は特に青の時代や、新古典主義の時代の作品が好きで、ピカソ展があると出来るだけ時間を作って出向いていた。 さっき教えてもらった通りの道順で、美術館に着いた。 彩子が好きな作品の前でじっと佇んでいると、背中から声がした。 「無事に着きましたね」 振り向いた瞬間、彩子は、これは心のどこかでちょっと期待していたことだと思った。 「はい、ありがとうございました」 「青の時代ですか、お好きなのですか?」 「はい、大好きです」 「そうですか。では」 そう言うと、男性は静かにその絵の前を去り、次の部屋へ向かった。 もっとゆっくり話したかったが、美術館の中で長話は禁物と彩子だって知っている。 きっとまた後で会えるわと、自分に言い聞かせて、彩子はゆっくりと鑑賞を続けた。 ピカソ展を堪能した彩子は、あの後、男性の姿を見かけなかったことを少しばかり残念に思いながら、美術館を出た。 彩子はゆっくりと地下鉄駅に向かって歩き始めた。だが途中で周りを見渡して、また迷ってしまっていると知った。どこで間違えたのか、もうどう戻ればいいのかもわからない。 今日二度目の泣きそうな気分になって、慌ててスマホのナビに地下鉄駅の駅名を入れていたら、今日三度目の後ろから声を掛けられるシーンになった。 「やっぱり迷っていますね」あの男性がいかにも可笑しそうに言った。 「あっ、どうして?」 「前を歩いているのをお見掛けして、地下鉄駅に行くものだと思っていたら、違う方へ歩いてゆくので、きっとまた迷うかなと思っていたら、やっぱり」 男性はもう我慢が出来ないと言うように、声をあげて笑い始めた。 「そんなに笑わなくてもいいでしょ。だって、どこも同じに見えちゃうのよ」 「そうですね。迷いますよね。笑ったりして、ごめん」 そう言いながらも、まだ男性は笑っていた。彩子も釣られて声を出して笑った。 ピカソ展が縁で、彩子と渉(わたる)は付き合い始めた。 彩子は、渉が三十八歳で同い年だと言うのを運命的に感じたし、初めて渉の部屋に行ったときに、渉が愛してやまない印象派の絵画、モネやルノワールがいくつも飾られてあることも素敵だと思った。 美しい絵画が好きな素敵な青年。彩子は渉に夢中になった。 付き合い始めると、渉が意外に頑固でわがままで、何を考えているのかわからないところがあると感じたが、その程度のことは大抵の男性にあることだと思って、気にしないようにした。 出会いから一年が過ぎようとした頃、現代アートの展覧会に二人で出かけた。 正直なところ、彩子には何がいいのかわからなかったが、渉はいたく感銘を受けたようで、それからというもの、渉は現代アートの展覧会にばかり行きたがるようになった。 彩子が現代アートの良さがわからないと言うと、渉はいかにも憐れむような眼をして、 「この良さがわからないのは、心が素直でないからだ」などと言った。 彩子の心は深く傷ついた。だが、一年も付き合えば、それだけで別れを決意することはなかなか出来なかった。 彩子は心にもやもやしたものを抱えたまま、ずるずると付き合いを続けた。 ある日、久しぶりに渉の部屋に行くと、部屋の様子が変わっていた。 モネやルノワールはどこにもない。 つい最近、ネットで見た作品をまねて、壁という壁にガムテープでバナナが貼り付けてあった。バナナを張り付けた日が違うのだろう。真新しいバナナもあれば、真っ黒に変色して萎びてしまったものもある。 「時とともに、移ろいゆく様が素晴らしい」と渉は言った。 ハエが三匹飛んでいた。もう何が何だかわからない。 彩子は哀しくて涙が出た。 ティッシュを使って鼻をかむと、渉が寄ってきた。 「そのまま、それ、ここに置いて」 「えっ、何? これ?」 彩子はくしゃくしゃになったティッシュをテーブルに置いた。 「うん、いい。これは、いいよ」 渉はそのティッシュを大事そうに壁に貼り付けた。 彩子は、ようやく決心がついた。 #第36回どうぞ落選供養
karai