時代劇の間違い その2
刀と槍
テレビや映画の時代劇で戦国時代の合戦シーンを見ると、たいてい(というか、全部)刀と槍の使い方が間違っている。
NHKの大河ドラマ『毛利元就』で、刀を持った一党が甲冑に身を固めた敵をバッサバッサと切って行く場面には、あんぐりと開いた口が塞がらなかった。
刀では切られないから甲冑に身を固めるので、切られるのであれば、重くて動きが不自由になる分だけ不利である。
その証拠の一つとして馬庭念流のような戦国時代に発足した剣術が挙げられる。
馬庭念流には「胴打ち」がない。敵の胴を打っても、鎧で守られていて切り込むことが不可能だから胴打ちがないのである。
甲冑が防禦の役に立たないのであれば、着衣のまま戦ったほうが、よほど身軽で楽である。
馬上の合戦シーンでは、たいてい刀を振り回している。
鎌倉時代の名残を留める室町時代の佩刀の時代には太刀を振り回すこともあったが、敵味方が入り乱れて戦う戦国時代には、抜かなくなった。
入り乱れて戦う戦闘では、二尺三寸五分の刀(これが最も多いので定寸と言う)では、いくら振り回しても、敵には届かない。
物凄い膂力(りょりょく)の持ち主で、四尺や五尺の刀を振り回しても(四尺で、果たして届くかどうか)敵は、もっと長い槍を持っている。
これまた思い違いをしている人が多いのだが、合戦時の槍は突く武器ではない。
横殴りに振り回して敵の側頭部を狙い、殴り倒す武器である。上手く命中すれば脳震盪(のうしんとう)を起こして倒れるから、そこで止めを刺して首級を挙げる。
槍が突く武器になったのは、戦国時代が終わり、平和な江戸時代になってからである。
江戸時代には剣術と同じように、道場(江戸時代は「稽古場」と呼称した。
「道場」は明治時代になって「剣術」が「剣道」に、「柔術」が「柔道」に、「弓術」が「弓道」になってから。江戸時代の「道場」は「仏道修行の場」か「法事の場所」の意味)で槍もまた、一対一での稽古をするようになった。
黒澤明脚本、寺尾聰主演で映画化された、『雨あがる』(原作は山本周五郎)という作品がある。
この作品は、非常に良くできていた。寺尾聰は、誰か名のある槍の師範について、かなり訓練を積んだものと思われる。
構えも堂々としていて、隙がなかった。
将と兵
合戦に触れたので、しばらく合戦の話を続けよう。
一口に「将兵」と言うが、「将」が甲冑の騎馬武者で、「兵」が陣笠に軽鎧(背中が守られていない)の歩兵(足軽)である。
両者の比率は、将が一に、兵が九の割合である(もちろん、おおよそ、であって正確な比率ではない)。
我が家の先祖は小田原の北条氏に仕えていて、有事(合戦)の際には五十人を出すように要請されていた。
この件(古文書)で、司馬遼太郎さんが拙宅に取材に見えたこともある。
つまり、五人の騎馬武者と、四十五人の歩兵を出してくれ、というわけである。
兵農分離の時代ではないから(兵農分離は織田信長の頃に始まって、豊臣秀吉の時代に本格化する)四十五人の歩兵は農業従事者の百姓である。
また、五人の騎馬武者は、その百姓たちが耕作する田畑の地主でもある。
この歩兵の人数が足りない場合には、手を回してあちこちから借り集めることになるが、いざ合戦となって敗勢となった時が大変。
借り集められた歩兵は、自分たちを率いる騎馬武者には、何の義理もない。だから、さっさと見捨てて、逃げ散る。
よく時代劇で、敗勢となった途端に足軽たちが逃げ散り、それまで、ほぼ互角だったのが瞬時に形勢が決まる場面が描かれる。
こういう崩壊現象が起きるのは、前述のような理由による。
たとえ騎馬武者が田畑の地主であっても、その田畑を借りて小作するようになって日が浅ければ、やはり逃げ散る。
この時代は百姓の移動も非常に多かった。「あっちのほうが土地が豊かで、米もたくさん収穫できる」と聞けば、さっさと引っ越す。
土地の支配者の武士階級は、どうにかして百姓の流出を止めようと工夫を凝らすが、もちろん簡単には行かなかった。
罰則を設けても意味はない。年貢を軽減したり(そうすると武士階級の収入が減る)しても、誰でも似たようなことを考えるから、他国の武士階級も同じことを考える。
新田を開発したら、それから数年間は年貢をゼロにするとか、年貢は稲だけで、他の農作物は無税にするとか、それこそ、涙ぐましい努力をする。
それだけでなく、養蚕だとか、蝋燭(ろうそく)の製造だとか、蝋燭の原料の櫨(はぜ)の栽培だとか、殖産興業を指導支援して、百姓が年貢を出すのに苦心惨憺しないように工夫する。
こういうことを積極的にやった殿様が上杉鷹山(ようざん)のように名君と言われ、何もせずに百姓の逃散欠落(かけおち)を許すような殿様が暗君と蔑(さげす)まれるわけである。
プロフィール
若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。