ビギナーズ小説大賞 佳作「『ウン』がついた人」
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「行きたくないな」
数枚残った葉を手持ちぶさたそうにぶら下げている銀杏並木の坂道を僕は重い足取りで歩いていた。冷たい朝の風が僕の心を試すように撫でていく。僕が通う中学校はこの坂を百メートルほど上ったところにある。この時間じゃ、完全に遅刻だ。もう僕以外に坂を上る生徒はいない。
僕がいじめられるようになったのは、中学二年になってから。それまでは楽しく充実した学校生活を送っていた。幼なじみで親友の雄一と一緒のクラスだったから。雄一とは小学校から中一までずっと同じクラスだった。どちらかというと無口で目立たない僕に対し、雄一は明るく社交的で、しかも頭のいいやつだった。僕は雄一が一緒だと他のやつとも話ができた。雄一がいたからこそ僕は学校での人間関係をなんとか作り上げることができていたのだ。
しかし、中学二年になる前の春休み、突然雄一の一家は引っ越してしまった。近所の人の話では、雄一の父親は賭け事が好きで、あちこちのサラ金に多額の借金があったようだ。でもなぜかその借金を全て一日で返済し、その日のうちに引っ越したのだという。雄一の家に行ってみたが、家の中はとても一日で片付けたとは思えないくらいきれいに片付いていた。僕は、すぐに雄一にメールをしたが、まだ返事は来ていない。いつかきっと雄一から返事が来る、僕は今でもそう信じている。
雄一がいない学校生活を想像し、不安と憂鬱でいっぱいだった春休みが終わり、とうとう二年生になった。案の定、雄一がいないと僕は新しいクラスになじめず、たちまち孤立していった。雄一がいたときは一緒に遊んだ友達も次第に僕から離れていった。僕から話しかけることはなかったし、彼らも雄一がいないとおもしろくないのだから話しかけては来ない。当然と言えば当然だ。
孤立した僕に対するいじめ。それは唐突に始まった。ゴールデンウイークが明けた頃、クラスのやんちゃな三人組が僕にちょっかいを出し始めた。
「よお、ひとりぼっちのボッチー君。今日も陰気くせえ顔してんなあ」
休み時間、文庫本を読んで時間を潰していていた僕の頭を小突きながら、やんちゃ三人組のボス、田端が言った。突然のことに驚き、どう反応してよいかわからず黙って俯いていると、手下の二人が笑いながら被せてきた。
「何だよお前、聞こえねえのかよ」
「聞こえてんだろ!なんか言えよ!」
こんな状況に陥ったのは生まれて初めてだ。こんなときはどうしたらいい?焦りと恐怖で心臓がばくばくしていた。
「無視してんじゃねえよ!」
田端がいきなり僕の文庫本をひったくり、教室の後ろに放り投げた。
「な、何するんだよ……」
消え入るような声をなんとか絞り出した。
「な~に~?聞こえねえんだよ。」
手下の一人が言った。
「読みたきゃ拾ってこいよ!」
ドスのきいた声で田端が怒鳴った。
それまでキャアキャアと話をしていた女子の声がしなくなり、教室がシーンと静まり返った。僕の心と体は完全にフリーズした。
それ以降、彼らのいじめはどんどんエスカレートしていった。授業中、先生が黒板に向かっている間に後ろから消しゴムを投げてくる。廊下ですれ違いざまに「びびってんじゃねえよ、ボッチ!」と、目をそらす僕を面白がって嘲る。後ろから「さっさと行けよ! ボッチ! 遅えんだよ!」などと言いなが突き飛ばす。クラスには彼らに同調するやつはいないが、悲しいことに止めるやつもいない。女手一つで育ててくれている母には心配かけたくないからいじめられていることは言っていない。自尊心をズタズタに引き裂かれながら、僕は誰にも相談できず、孤独を噛みしめていた。学校に行くのが嫌だ。いや、本当に嫌なのはあれほど罵られ、いじめられながら何も言い返せず、彼らを恐れながら恨むことしかできない自分が嫌なのだ。それは痛いほどわかっていた。
あと少しで学校だな……。うなだれ、ため息をつきながら歩いていたその時だ。僕の後頭部にボタリと何か冷たいモノが落ちてきた。慌てて手で触って見てみるとそれは白い鳥の糞だった。鳥まで僕を馬鹿にしやがって。と、思った瞬間、目の前に白い煙がモクモクと立ちこめてきた。その煙はどんどん大きく濃くなって辺り一面を覆った。近くで火事でもあったのか? 突然のことに戸惑いながらも、状況を把握しようと必死で目を凝らしていると、ぬっと煙の間から異様な形をしたモノが現れた。その姿を見てぎょっとした。顔が鳩、体は人間、手にノートとペンらしきものを持った鳩人間が現れたのだ。
「ありがたく思え。お前はウンがついた」
唖然としている僕に鳩人間は続けて言った。
「ウンがついたのだ。要するに運がついてる人間になったということだ」
意味がわからない。
「今、お前の頭に鳥のウンコが落ちたな。お前は鳥神様に選ばれたのだ。すべての鳥から祝福されたのだ」
よく分からないが、とりあえずめでたいことなのだということは理解できた。
「鳥の名前が入っていることわざや慣用句を何か一つ言え。四字熟語でもいいぞ。ただし三秒以内で、だ。答えたその言葉を実現させてやろう。しかもお前にとっていい状況になるよう実現させてやるのだ。だが、一ヶ月以内に他の人間が使ったものはだめだ。ちなみにここ最近使われたものと言えば……」
一方的に喋り、鳩人間は持っていたノートをパラパラとめくった。
「うむ、一石二鳥におうむ返し……それと……立つ鳥跡を濁さず……だな。それ以外なら言ってよいぞ。実現させてやる」
なんだか国語の授業みたいだ、と思うと、やっと言葉が出た。
「いやいや、急にそんなの、思いつかないよ。メジロとか鳥の種類を言うだけじゃだめなの?」
「だめだ。これは選ばれた者の知性を問うておる。知性のない人間はこの祝福を受ける資格はない。ああ、もう時間がない。では、始めるぞ。鳥が使われている言葉を言え~。」
そう大きな声で言うと、すぐさまカウントダウンを始めた。
「さ~ん~に~」
「ちょっ、待っ、」
「い~~」
「つっ、鶴の一声っ!」
僕はとっさに叫んでいた。鳥人間は、にやりと満足げな笑みを浮かべると、
「よろしい、たった今から実現させてやろう!」
と言うやいなや、あっという間に煙とともに消えてしまった。呆然として暫くその場で立ちすくんでいたが、我に返ると僕は、自分が言った言葉があまりにばかばかしくて腹が立ってきた。実現させてくれるのなら、もっといい言葉を言えばよかった。一石二鳥なんて言ったやつ、咄嗟にいいのが思いついたもんだ。それにしても『鶴の一声』なんてどこでどう実現させるっていうんだ。いや、待てよ、僕は現実がつらすぎておかしくなってしまったのかもしれない。これはきっと幻覚を見ているんだ! さっきの出来事を振り切るかのように僕は学校に向かって走った。とにかく現実を見よう。僕の置かれている現実を。
教室に着くとすでに朝のHRが終わり、一時間目の授業が始まる前だった。席に着くといつものように三人組が僕をからかいに来た。
「遅刻かよ~。やるじゃね~か。けどお前なんかきったねえモンが頭についてるぞ」 田端が頭を小突きながら言う。
「汚えんだよ、ちゃんと髪洗ってんのか?」
「ったくだらしねえやつだな」
からかいながら手下の二人も僕の頭を小突く。と、そのとき、だんだん自分の胸の奥から熱いモノがこみ上げてくるのがわかった。それは喉を通り越して口の中で爆発した。
「黙れっ! 触るんじゃねえ!」
え? 僕、今何か言った? 発した言葉が本当に自分の口から出たものなのか信じられなかった。三人が驚いたように目を丸くして僕を見ている。田端は口をもぐもぐさせているが言葉にはならない様子だった。僕は確かに叫んでいた。何の抵抗もなく、自分の気持ちを素直に叫んでいた。気持ちよかった。でもすぐに何倍もの仕返しが返ってくるだろうという恐怖に打ち震えた。でも、僕は目をそらさずにしっかりと彼らを見据えた。どれくらいたっただろう。
三人は罵声どころか一言も声を発することはなかった。彼らの目からは明らかに狼狽が見て取れた。
教室はいつの間にか静まりかえっていた。しばらくして一時間目の授業の先生が来た。三人は黙ったまま自分の席に戻っていった。 そのあとの授業は全く頭に入ってこなかった。ただ、あの鳩人間のことと、僕が鳩人間に言った「鶴の一声」という言葉が僕の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
不思議なことにそれ以来、三人は一切僕をいじめることはなかった。
それから一ヶ月ほどしたある日の朝。雄一からメールが届いた。嬉しくて慌てて開いた。だが、それを読んで僕はひっくり返りそうになった。
「急にいなくなってごめん。実は不思議なことがあってさ。お前『立つ鳥跡を濁さず』って言葉、知ってる? あるとき頭に~」
(了)