第16回「小説でもどうぞ」選外佳作 一本道/市田垣れい
第16回結果発表
課 題
遊び
※応募数206編
選外佳作
「一本道」
市田垣れい
「一本道」
市田垣れい
畑に囲まれた一本道を日傘をさして歩いてきた女は、何かが道の真ん中にあることに気づいた。近づいていくと、じりじりと太陽が照りつける最中、ひとりの子どもが道にしゃがんでいた。帽子をかぶっていない後頭部から首筋には汗が流れていた。しゃがんだまま、彼は少しずつ移動している。なるだけ地面に近づこうと首を伸ばして、自分の足首をつかんで横ばいしている姿はカニのようだった。
見たところ子どもは三歳くらいの男の子だった。彼が三歳くらいだと分かったのは、女が産んだ子どもを三歳で手放して家を出たからだ。彼の後ろにそっと近づいた女は、彼が見ているものを覗いた。それはアリだった。アリが行列を作って行進していた。一匹たりとも道を外さない、見事な行進だ。
アリの行列の先頭は見えず、あぜ道の脇にある草の中まで続いている。しゃがんだ子どもは、アリの行列が草むらに入っていくことに、まだ気づいていないようだった。
彼は時々足を止めて、アリの行列が途切れるのではないかと後ろを振り返っていた。しかしアリの行列は長く続いていて、最後尾はまだ見えなかった。
女は道の向こうを見渡した。この道に車はめったに通らないが、それでもこのカニのような恰好をした子どもが車に轢かれたらどうしようという不安があるのか、女は子どもから離れられないでいた。
子どもは女には興味を示さず、いや女の存在にすら気づかずにアリを見ていた。
あぜ道の脇から麦わら帽子をかぶった男が、かごを担いで出てきた。男は道の向こうに女がいることに気づいた。女はうつむいて地面を見ているようだ。日傘を持った女の立ち姿が別れた妻に似ていた。男の顔から汗が流れている。顔だけではない、男の体じゅうから汗が噴き出ていた。男はかごを道の端に置いて、腰に下げていた手ぬぐいを取り、麦わら帽子を脱いでかごの上に置いた。顔から首、シャツをまくりあげた腕を手ぬぐいで拭いていく。最後に手ぬぐいを広げて頭に乗せると、その上から麦わら帽子をかぶった。かごを担いで、男は女に近づいて行った。男がすぐそばまで行くと、女は男に気づいて会釈して、すぐに目線を地面に落とした。女の目線の先に、ひとりの子どもがしゃがんでいた。
女の子どもだろうかと男は一瞬思ったが、女の態度から違うと思った。女はどこか他人行儀だった。こんな炎天下だ。自分の子なら手を引いて立たせて連れて帰るだろうと考えた。
「ぼうず、こんなことしていたら、干からびてしまうぞ」
しゃがんでいた子どもが顔を上げた。子どもは男と女の顔を交互に見た。女は男と子どもは親子だろうか、いや違うと思った。男の声に対して、子どもの反応は薄かった。男が父親なら子どもはもっと身構えたはずだ。
男はかごを地面に置いて、中に手を突っ込んだ。男がかごからつかみ出したのはトマトだった。もぎたてなのだろう、女は青臭い匂いを感じた。男はトマトを子どもに差し出した。
「ほら食え。干からびるぞ」
子どもはうなずいて、トマトを受け取った。
「ありがとう」
小さな声で返事をして、子どもは立ったままトマトをかじった。かじったトマトから汁が垂れて、地面を黒く湿らせた。子どもがトマトをかじるたびに、汁がしたたり落ちて黒い土になった。男はかごからトマトを二個取り出して、一つを女に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男は女の声にうなずいて、もう一つのトマトをかじった。男のトマトからも汁が垂れて男の腕を伝って地面に落ちた。
女は二人を見て、汁をこぼさないように上を向いてトマトをかじった。かじりながら、トマトの汁を吸った女は、むせた。
『ぶしゅううう』
女の口からトマトの汁が飛び散った。男のズボンと子どものシャツがトマトで染まった。
突然、子どもがあっと声を上げてしゃがんで地面を見た。トマトの汁を浴びたアリが右往左往して騒いでいる。アリの行列は途切れてしまっていた。
男が子どもの隣にしゃがんだ。女もスカートのすそを抑えて、男の隣にしゃがんだ。
三人が黙って見ていると、アリはようやく落ち着いて、元の隊列を作って行進を始めた。
男が笑った。それを見た子どもが笑って、最後に女が笑った。
(了)
見たところ子どもは三歳くらいの男の子だった。彼が三歳くらいだと分かったのは、女が産んだ子どもを三歳で手放して家を出たからだ。彼の後ろにそっと近づいた女は、彼が見ているものを覗いた。それはアリだった。アリが行列を作って行進していた。一匹たりとも道を外さない、見事な行進だ。
アリの行列の先頭は見えず、あぜ道の脇にある草の中まで続いている。しゃがんだ子どもは、アリの行列が草むらに入っていくことに、まだ気づいていないようだった。
彼は時々足を止めて、アリの行列が途切れるのではないかと後ろを振り返っていた。しかしアリの行列は長く続いていて、最後尾はまだ見えなかった。
女は道の向こうを見渡した。この道に車はめったに通らないが、それでもこのカニのような恰好をした子どもが車に轢かれたらどうしようという不安があるのか、女は子どもから離れられないでいた。
子どもは女には興味を示さず、いや女の存在にすら気づかずにアリを見ていた。
あぜ道の脇から麦わら帽子をかぶった男が、かごを担いで出てきた。男は道の向こうに女がいることに気づいた。女はうつむいて地面を見ているようだ。日傘を持った女の立ち姿が別れた妻に似ていた。男の顔から汗が流れている。顔だけではない、男の体じゅうから汗が噴き出ていた。男はかごを道の端に置いて、腰に下げていた手ぬぐいを取り、麦わら帽子を脱いでかごの上に置いた。顔から首、シャツをまくりあげた腕を手ぬぐいで拭いていく。最後に手ぬぐいを広げて頭に乗せると、その上から麦わら帽子をかぶった。かごを担いで、男は女に近づいて行った。男がすぐそばまで行くと、女は男に気づいて会釈して、すぐに目線を地面に落とした。女の目線の先に、ひとりの子どもがしゃがんでいた。
女の子どもだろうかと男は一瞬思ったが、女の態度から違うと思った。女はどこか他人行儀だった。こんな炎天下だ。自分の子なら手を引いて立たせて連れて帰るだろうと考えた。
「ぼうず、こんなことしていたら、干からびてしまうぞ」
しゃがんでいた子どもが顔を上げた。子どもは男と女の顔を交互に見た。女は男と子どもは親子だろうか、いや違うと思った。男の声に対して、子どもの反応は薄かった。男が父親なら子どもはもっと身構えたはずだ。
男はかごを地面に置いて、中に手を突っ込んだ。男がかごからつかみ出したのはトマトだった。もぎたてなのだろう、女は青臭い匂いを感じた。男はトマトを子どもに差し出した。
「ほら食え。干からびるぞ」
子どもはうなずいて、トマトを受け取った。
「ありがとう」
小さな声で返事をして、子どもは立ったままトマトをかじった。かじったトマトから汁が垂れて、地面を黒く湿らせた。子どもがトマトをかじるたびに、汁がしたたり落ちて黒い土になった。男はかごからトマトを二個取り出して、一つを女に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男は女の声にうなずいて、もう一つのトマトをかじった。男のトマトからも汁が垂れて男の腕を伝って地面に落ちた。
女は二人を見て、汁をこぼさないように上を向いてトマトをかじった。かじりながら、トマトの汁を吸った女は、むせた。
『ぶしゅううう』
女の口からトマトの汁が飛び散った。男のズボンと子どものシャツがトマトで染まった。
突然、子どもがあっと声を上げてしゃがんで地面を見た。トマトの汁を浴びたアリが右往左往して騒いでいる。アリの行列は途切れてしまっていた。
男が子どもの隣にしゃがんだ。女もスカートのすそを抑えて、男の隣にしゃがんだ。
三人が黙って見ていると、アリはようやく落ち着いて、元の隊列を作って行進を始めた。
男が笑った。それを見た子どもが笑って、最後に女が笑った。
(了)