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第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 破産申立書/丹波らる

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結果発表
W選考委員版「小説でもどうぞ」第4回「老い」選考会&結果発表
第4回結果発表
課 題

老い

※応募数344編
「破産申立書」
丹波らる

 寝たきりになった兄に、億を超える借金があることを知ったのは、一週間前のことだった。歳の離れた兄は、群馬で小さな鉄工所を営み暮らしていた。岡山の実家で、飲んだくれの親父と二人暮らしをしていた当時中学生の私を、その鉄工所近くのアパートに呼んでくれたのも、東京の大学に入れてくれたのも、兄が結婚もせず、私を引き取って黙々と働いてくれたからだ。そんな兄が古希を手前に脳卒中で倒れた。入院や介護の手続きで兄の書類を整理していたときに、多くの借用書が見つかったのだ。私の学費も仕送りも、結婚祝いもすべて……それ以上のことを考えるのを私は止めた。
 無料法律相談や法律に詳しい何人かの知り合いに、兄の借金のことを相談したが、みんな口を揃えて「破産手続きをすればいい」とアドバイスした。確かにそれで兄の借金は帳消しになる。ただ、小さな鉄工所もすべて失うだろう。それがなんだか兄に申し訳ない気がしていた。
(この家を売っても二千万ぐらいだろうな)
 ひとりそう呟いて、空を見上げた。白髪の多くなった初老の私でも、何とかしてでも兄の借金を返したい。しかしこのことを妻に打ち明けることが怖かった。

 妻とは東京の会社で知り合った。関連会社の部長のお嬢さんで、古い言い方をすれば政略結婚。会社と会社の関係性だけで決められたのだ。妻にも当時好きな人がいただろうに、親の都合で私となんか結婚させられたのだ。だからいまだに妻と義父には頭が上がらない。しかし兄の借金のことは避けては通れなかった。
「なあ」
「なあに」
 リビングで家計簿をつけている妻が返事をする。こちらは見ない。カタカタと電卓のボタンを押している。
「兄のことなんだが」
「ああ、お兄さんね。手術はうまく行ったみたいだし、転院のめどでもたったの? まさか話せるようになったの?」
「寝たきり状態は変わらないね。重度の麻痺は手足に残ってしまうらしい。脳にも大きなダメージが残ってる可能性がある。なんせ発見が遅かったから、一命を取り留めただけでも奇跡だなんて医者は言ってたよ。それでなんだが」
「どうしたの。もしかしてお金の話?」
 流石というべきか、妻はいきなり核心を突いてきた。電卓のボタンを押す手は休めない。でもこれ以上隠しても仕方がない。
「そうなんだ。兄には借金があって。それでその、どうしようかな、と思っているんだけど……」
「あら、そうだったの。で、肩代わりするかどうか悩んでるのね。私はどちらでも構わないわよ。ただ」
「ただ?」
「ただ、教えて頂戴。もし今のあなたが中学生の頃に戻ったとして、お兄さんがあなたを群馬の方に引き取りたいって言って来たら、それでもあなた、お兄さんについていく?」
 妻に言われるまで考えたこともなかった。今の兄の借金のことを知ったうえで中学生に私が戻ったら……それでも兄についていくだろうか。例え四十年後に億を超える兄の借金を返す羽目に自分がなろうとも。次々と兄との思い出が思い出された。涙が出そうになるのをなんとか我慢した。
「ついていくのね、あなた。答えなくていいわ。だってそういう目をしてるもの」
 そう言って妻は小さく笑った。なにか数字を書き込んでから家計簿を静かに閉じた。
「ありがとう。でも苦労をかけるよ、今以上に。子どもだって大学生だし余裕はないよ。それでもいいのかい?」
 妻はもう何も言わなかった。ただ静かに私を見ていた。
「ついでと言ったらなんだけど、君に聞きたいことがあるんだ」
「なあに」
 妻は怪訝そうな表情で私を見つめた。
「もし今の君が、独身の頃に戻ったとして、俺が君と結婚したいって言ってきたら、それでも君は、俺と結婚するかい?」
 妻はまた静かに家計簿を開いた。
「馬鹿な質問ね」
 電卓のボタンを叩く音がカタカタと鳴り始めた。
「そうだね、馬鹿な質問だね」
 私はそう言うと、リビングを後にした。書斎に着くと鞄から真っ白な破産申立書を取り出した。びりびりと破いてはゴミ箱に捨てていった。次に鞄から書きかけの離婚届を取り出した。力を込めてぐしゃぐしゃに丸めた。ゴミ箱に目がけて投げた。
(了)