第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 おいもわかいも/橘静樹
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
「おいもわかいも」
橘静樹
橘静樹
最近、ばあさんが返事をしてくれんくなった。ワシが呼びかけても、ちらりとこちらを見るだけで、はあ、とため息をつくばかり。
家のことを何もしてくれんわけじゃない。そもそもワシらの世代は男は外で稼ぎ、女は内で家庭を守るのが当たり前じゃったから、ワシは食器ひとつ片付けたこともないし、そうしようと思ったこともない。定年退職して年金暮らしになってからも、ずっとそうじゃった。だからばあさんがいないと、家のことはワシには全く分からん。家事全般は普通にしてくれているところを見ると、ばあさんもワシを困らせるつもりはないらしい。ただ、返事をしてくれん。
買い物はワシの運転で一緒に行くし、ご飯も一緒に食べる。ここ十年そういう生活を続けてきたのに、最近になって急に、ワシが呼んでもばあさんはため息をつくようになった。
「おいばあさんや、おかわり」
ばあさんは、返事をせんけどお茶碗を取ってくれて、ご飯をよそってくれよる。別にぶっきらぼうにではなく、とても丁寧な所作で。ばあさんの、こういう一つ一つの丁寧な動きが好きなんじゃが、声に出して言ったことはない。それがいかんのだろうか。
一緒にコタツに入って、ご飯を食べて、買い物に行って、また一緒にテレビを見る。それがだいたいの一日の流れなのじゃが、今日のお昼の番組を見てワシは動揺してしまった。熟年離婚についての特集じゃった。熟年離婚の特徴として、夫婦の会話が減ったとか、相手に感謝を伝えないとか、家のことを一切しないとか――ワシのことじゃ! と思わず手を挙げそうになった。
ばあさんも黙ってテレビを見ておる。ワシは、ピンチじゃと思った。ごくりと唾を飲み、恐る恐るばあさんに聞いてみる。
「おいばあさんや。ばあさんも、熟年離婚を考えることはあるのか」
思ったよりワシの声は弱々しく、震えてしまった。ばあさんは目を丸くして、驚いた顔のままワシの顔をまじまじと見ると、こらえきれなくなったようにプーッと吹き出して笑いおった。
「何を言い出すかと思ったら。うふふ、私はどこにも行きませんよ。あなたの方こそ、今さら私と別れたいんですか?」
ああやだやだ、とばあさんは笑いおる。ワシは少しムッとして、ばあさんに言い返す。
「最近、ワシが呼んでも返事をせんじゃないか?」
「ああ、そのことでしたか」
ばあさんは、笑った顔から、またしゅんとした顔に戻りおる。
「なんじゃ。何かあったのか」
それはですね、と言ってばあさんは続ける。
「あなたから『おい!』と呼びかけられる度に、私はなんだか自分がすごく年を取ったような気持ちになって、気分が落ち込んでいたんです」
ワシには何のことかさっぱりじゃった。
「おいばあさんや、ワシにはばあさんが何を言っとるのかわからん」
「だからそれですよ……もう。『おい』って呼ばれたら、老人の老ですよ。老い、と言われてるような気分になって、老けたと言われてるみたいで、私はそれが嫌だったんです」
実際に老けとるじゃないか、とここで口に出さなかったワシは偉いと思う。
「顔を洗うときなんかに、ああまたシワが増えたなあ、とか思っていると、あなたが被せるように『老い!』『老い!』と呼ぶもんだから、それが何だか嫌な気持ちになって返事ができなかったんです」
そんなことか、と思ったがこれも口には出さなかった。ワシから見れば、ばあさんは老けはしたが、若いばあさんだと思う。とは言えなんとかばあさんの機嫌を良くして、仲直りはしたい。ここ何年もゆっくりとしか回っていない脳みそを一生懸命まわしたワシは、一つの答えを見つけた。今までワシはばあさんを褒めたことはないかもしれんが、口に出すことが大事じゃとさっきのテレビも言っとった。ワシはばあさんに、はっきりと伝えた。
「すまんかったな、和解しよう。ワカイ」
(了)