第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 老い/庵藤ひろし
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
選外佳作
「老い」
庵藤ひろし
「老い」
庵藤ひろし
「ええと、何しに来たんだったっけな」
正道はキッチンに来て、立ちすくんだ。
最近はこんなことがしばしばある。
歳は取りたくないものだが、こればかりは仕方ない。
「ええと……」
いくら考えても思い出せない。
「ええい、まぁいいか。必要ならまた思い出すだろう」
正道は苦笑いをして居間に戻った。
「そうだ」
正道は時計を見た。
こんなにゆっくりしてはいられないのだった。
出勤の時間が迫っている。
あと数日で定年を迎えるところで遅刻などしてはいられない。
「佐知子、弁当をくれ」
と言ったところで思い出した。
佐知子は昨日から孫の顔を見に、娘のところへ行っているのだった。
そうだ、今日の昼飯は外で食おうと思っていたんだった。
そうそう、明日はカミさんがいなくて愛妻弁当がないから一緒に昼飯を食おうと部下たちを誘っていたんじゃないか。
やれやれ、俺は何をやっているんだ。
昼飯はどこで食おう。
暫く行ってないが、あの……何と言ったっけな、あの蕎麦屋はどうだ?
若い子たちは、蕎麦より洋食の方がいいか。
確か、あの……薬局の二階にそんな店があったな、あそこがいいか。
いや、部下たちに聞いて好きなところにしてもらうのがいいか、そうだな。
定年間近のロウトルは若い人の言うことを聞いているのがいい。
そうそう俺は物分かりの良い上司なんだ。
それにしてもあと十日か。
いろいろあったな。
正道の胸に新入社員の頃から最近のこと迄が走馬灯のように去来した。
入社当時は世の中の景気も良く、みんなひたすら働いた。
働けば働くほど給料が増えた。
今思えば、いい時代だった。
あの頃の課長にはこっぴどく怒られたこともあったが、たくさんのことも教えられた。
今では考えられないが社内は煙草の煙で充満し、課長が怒るとよく灰皿が飛んできたっけ。
あの頃、課長は怖かったなぁ。
でも今になって考えると、飛んできた灰皿より、もらった恩の方がはるかに多い。
有り難いことだ。
俺が佐知子と結婚した時は仲人をしてもらったんだ。
仲人をお願いしに行った時、課長は自分のことのように喜んでくれたな。
ほんとに有り難いことだ。
その課長が部長に昇進して俺が課長になった時は部員全員がお祝いの会をしてくれた。
みんな有り難う。
正道は思いだして涙ぐんだ。
そんなサラリーマン人生もあと十日か。
それからはどうしよう。
そうだな、暫くは佐知子と二人でゆっくりしよう。
佐知子には苦労を掛けた。
家のことは全て佐知子に任せきりだったな。
佐知子、有り難う。
「おっと」
こんなことはしていられない。
会社へ行かなくては。
「そうだ。弁当だ」
正道はキッチンへ向かった。
「おーい、佐知子。弁当をくれ」
キッチンへ行き、思い出した。
「そうだった。俺は何をやっているんだ」
ため息をつきながら玄関へ向かう。
靴を履き、忘れ物はないかと考えた。
「そうだ」
出勤前、仏壇に手を合わせるのが習慣だった。
時間はギリギリだったが、これをしないとどうにも落ち着かない。
全く……佐知子がいないと調子が狂う。
ええい、と、靴を脱ぎ、仏壇へ向かった。
仏壇の前に正座し、ご先祖様へ手を合わせる。
ふと見ると、そこに笑っている佐知子の写真があった。
「うん?」
その時玄関のチャイムが鳴った。
何かよく分からないまま玄関へ向かう。
玄関を開けると、どこかで見たような顔の男女が立っていた。
「斎藤さん、おはようございます。デイサービスです。あら、今日は支度できているみたいですね。偉いですねー。じゃ、行きましょうか」
(了)