第21回「小説でもどうぞ」選外佳作 夏が来る前の 木戸秋波留紀
第21回結果発表
課 題
学校
※応募数250編
選外佳作
夏が来る前の 木戸秋波留紀
夏が来る前の 木戸秋波留紀
金曜日――学校には、誰もいなかった。たったひとりで上履きを履き、たったひとりで廊下を通り、たったひとりで教室に入った。――空は、きれいに晴れていた。
そして、教室でも、たったひとり――には、ならなかった。――先に、彼女はたったひとりで、教室にいた。彼女は何をするでもなく、椅子に座ったまま、開け放された窓に広がっている、きれいに晴れた空を眺めていた。
「おはよう」
「――おはよう」彼女は振り返った。このクラスの生徒ではなかった。
「――えっと……。ごめんなさい。誰だっけ?」
彼女は、目をこすりながら答えた。
「……誰でも、ないよ」
「誰でも、ない?」
彼女はうなずくと、また、空の方を向いた。
「待ってよ」
彼女に近づくと、つん、と不思議な香りがした。これは――、……思い出せなかった。(しかし、いつかに出会っている香りであることは、間違いない)
「だからさ――誰でもない」
彼女は、振り返りながらそう言った。やはり、このクラスの生徒ではない。
「どのクラスだっけ?……ここではないよね?」
「クラスなんて、ない。私はどこにもいないよ」
「いないって、今、ここにいるじゃない」
「――そう、見える?」
埒が明かなそうだったので、質問を変えた。
「名前は、なんていうの?」
「――名前、ね――」
彼女はうつむいて、自分の足を見た。彼女の足は、細く、ほのかに赤みがさしていた。
「……どう思う?」
「何が?」
「私の名前は?」
「それを訊いているのだけれど……」
「私には、分からないや」
「なんで?」
「そっちが、決めることだから」
彼女とは、まともな話はできそうになかった。しかし、いつまでたっても、生徒も、先生も、一時限目も来そうになかったので、彼女と話すこと以外、何もできなかった。
「――この学校の、生徒だよね」
彼女が履いているスカートは、この学校のものだった。(が、それにしては、丈が短かった。おそらく、彼女が自分で短くしたのだろう)
「……そうなの?」彼女は不思議そうな顔をした。
「そうだよ。だって、そのスカート、この学校のやつだよ」
「――なるほどね」
彼女は、何度か小さくうなずいた。それから、こちらを見て言った。
「そう、望んだから、そうなった」
「――どういうこと?」
この時初めて、彼女の顔を、正面からはっきりと見た。彼女の髪は短く、癖のある黒髪だった。顔立ちはきれいで、大きな目をしていた。何も映していないかのように、澄んだ目をしていた。頬にも唇にも、彼女の足に見た、ほのかな赤みがさしていた。彼女は―やはり、誰だか分からなかった。
「私に、そう、望んだから、このスカート」……を、履いているの。私は」
「誰が望んだの?」
彼女は答えず、代わりに、こちらをじっと見た。
「覚えてない――」そう言って首を振ると、彼女は立ち上がって、言った。
「それもそうだよ。無意識のうちに望んだことだからさ」
「なんで――」
彼女は目を逸らし、窓の外の空を見た。
「――夏が来るよ。あと、少しすれば」
「そうなの?」
「うん。――思っている以上に、早く。でも、終わり方までは、まだ分からないけれど」
彼女は窓の方へ歩いていった。そして、空に背を向けて、彼女は言った。
「何をしようと思う?」
「夏休みに?」
「いや――夏に」
「そうだね……」
あと、どれくらいで夏がやってくるのか、分からなかった。なので、夏にやりたいことを、思いつくままに、口に出してみた。
「とりあえず、山――もしくは、野原に行きたいな」
「どちらも、いいね」
「友達とでもいいけれど、家族とでもいいけれど……本当は、ひとりきりで行きたい。それで、夏の空の下で、思いっきり、走ってみたい。それで、すぐに疲れて、草の上に寝転がってみたい」
「いいね、とっても」
「夜は何もしないで、ずっと星を数え続けていたい。そして、そのまま夜を明かしてみたい。――一個一個数えていくうちに、東の空が少しずつ紅くなっていく、のを見たい」
「――それから?」彼女は楽しそうに言った。
「それから、海に、行きたい」
「海、いいね」
「友達と一緒に、海で泳ぐ――というわけではなくて、ただ、水に足をつけて、冷たいな――って、いうだけのことをやりたい」
「いいね、それ」
「それから、夜には、壜のラムネを飲みながら、波の音を聞いて、そのまま眠たくなりたい―寝はしないけど」
「それから?それから?」
「――やっぱり、家にいるのもいいかな。家の中で、ずっと本を読んでいる。冷たい飲み物と、少しのお菓子を傍に置いて――それで、日が暮れたら、家のみんなで枝豆を食べて、庭で花火をして――」
「花火、やるの?」彼女の顔が輝いた。
「うん――ずっとやってなかったから、久しぶりに、やりたいなあって」
「――約束する?」
「うん――するよ。もちろん――」
「それ、忘れないでね」
夢はここで覚めた。時計は四時を示していた。ベッドから起き上がり、開いた窓から青い世界をぼんやりと眺め、思い出した――。夢の中の、不思議な彼女の香り、あれは、線香花火の香りだった、と――。
(了)