第6回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 ながいキャッチボール 尼子猩庵
第6回結果発表
課 題
家族
※応募数289編
選外佳作
ながいキャッチボール
尼子猩庵
ながいキャッチボール
尼子猩庵
「あついねェ」
と言って、お母さんは首に流れた汗をハンカチで押さえた。
墓地はたいへんあつかった。夏の光がまぶしくて、しんとしずまりかえっていた。
ふとたいへんすずしい、草や土のにおいのする風が、わたしのおでこや頬をなでた。そのまま髪の中を通りすぎて去って行った。
セミが、あつさでうねうねしている森の中からしぇいしぇい鳴き出した。そのセミについて、お母さんはわたしに何か言った。
わたしは聞きかえしもしなかった。わたしたちはさっき、けんかをしたので。
お母さんは今、仲直りの手をさしのべているのだ。けれどもわたしは、気もちの整理がつくまで、まだもう少しかかる。
立ちあがった拍子にてんと落ちたわたしの汗は、白い地面の上ですぐにかわいた。そっと後ずさってその場をはなれる。お母さんはわたしがはなれて行くことに気づいているけれど、ふり向きはしなかった。
木陰のベンチに腰かけた。そこにはさっきの風が吹いていて、たいそうすずしかった。
お墓の前にしゃがんだままのお母さんがまたハンカチで首を押さえる。わたしだけ陰だ。あっちはあつそうだな。と考えていると、
「ヒャー……」
わたしのとなりに腰かけたお父さんが言った。わたしが見つめていると、お父さんは地面を指さした。そこにはうごめく黒い染みがあった。だれかが落として行ったアイスクリームに、アリの大群がたかっているのだった。
「ヒャー……」
とわたしも言った。
「学校はどうだい」
「ぼちぼち」
セミが休憩に入って、あたりはまたしんとしずまりかえった。葉っぱがざらざらふるえている森の上に、真っ白い入道雲が出ていた。
お母さんはあちら向きにしゃがんでいる。
「ややっ。あそこにしゃがんでる人、なかなか美人だと思わないか」
答えないわたしを、お父さんはちらっと見た。それからお母さんに視線を戻して、「ふむ、」と言ったきり、ちょっと黙った。やがて、「あのね――」
「やだ」
お父さんはおかしそうに笑って、
「何が」
「仲直りしろって言うんでしょ」
「だって、お母さんは仲直りしたそうだったじゃないか。セミが何とかってさ。あの時に、ふだん通りに戻ればよかったんだよ」
「……わかってるけど、もう少しかかるの」
「そうか」
「そりゃお父さんは、お母さんのほうに味方するでしょうけど」
「そんなこたないよ」
とは言いながら、いかにもいとおしそうにお母さんを見つめている。それなので、
「わたしもお父さんのところへ行くかな」
と言ってみた。けれどもお父さんはこれに答えず、ただあごをさすっているので、
「ねえ。本気よ、わたし」
「うん。いつかね」
「今すぐよ」
「それはちょっとむずかしいな」
笑っていると思うと、あごをさする手を止めた。何か考えていると思うと、言った。
「君がくるころには、おれはもういないかもしれない」
「……?」
黙っているわたしの頭をなでて、
「でもその前にまた、会えるってことさ」
わたしは、髪の中に風が入ってくるのを感じつつ、
「ほんとに?」
「ああ。――だって、君が言ったんだもの。君の生まれる、ずうっと前の時代にね」
風はすずしくて、草や土のにおいだった。
「だから、いつかまた君の番がきた時は、教えてくれ。その時はおれも、きっと忘れているからさ」
お父さんが立ちあがった。
「……わかった」
わたしも立ちあがった。
「きっと教えたげる」
ふたたびセミが鳴き出した。墓地は白くてまぶしくて、たいへんあつい。
わたしはお母さんのとなりに戻って、しゃがみこんだ。それから、聞いた。
「さっき、なんて言ったの?」
「さっきって?」
「わたしがあっちに行く前」
「ああ、……忘れちゃった。たしか、『あついねェ』って言ったんじゃなかったかな」
それはちがう時だ。それよりあとのことだ。
――けれども、それでいいや。
「あついねェ。お母さん」
(了)