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第6回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 鶴のパリ旅行 江島珠

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第6回結果発表
課 題

家族

※応募数289編
選外佳作
 鶴のパリ旅行
江島珠

 白い病室の中に、気まずい沈黙が訪れていた。かれこれ三十分、病院食を食べる祖母に、母とわたしが代わる代わる話しかけている。しかし、祖母はそれらの声が聞こえないかのように反応しなかったり、あるいはまるでとんちんかんなことを言ったりと、会話の試みはことごとく失敗に終わっていた。祖母の衰えが随分と進んでいる、と母から聞いてはいたが、半年ぶりに会ってみると、もうかつての祖母ではないという実感が急に胸に迫り、わたしはそっと上を向いた。
 見上げた視線の先に、エッフェル塔の写真が貼ってあることに気がついた。
「あ、パリの写真や」
 わたしが呟くと、祖母が、急に病院食から顔を上げて言った。
「パリ、行ったな。今まででいちばんしあわせで、いちばんたのしかった」
 驚いて祖母の顔を見ると、その目に、今までなかった生気が戻っていた。呆気にとられているわたしたちをよそに、
「行ったばっかりの日に、なんかのパレードがあって。あれは独立記念日かいな」
 と言う。母が、不意打ちを食らいつつも、たぶんそれは革命記念日じゃないか、と呟く。祖母はそれにかまわず、うっとりと続けた。
「花火がいくつも上がって、兵隊さんの行進があって、飛行機がしゅうっと飛んで」
 そう言いながら、その飛行機が今飛んだかのように、目を細めて窓の外に目をやる。看護師が食事を下げに入ってきた。
 四年前の夏、祖母は、母とともにパリに遊びに来てくれたのだ。祖母にとって初めての海外旅行だった。
「お母さんほら、これカフェの写真。パリジェンヌみたいよ」
 体勢を立て直し、話の糸口を掴んだ母が、自分のiPhoneから当時の写真を探し出して見せる。写真の中で、祖母は一張羅に身を包み、綺麗にお化粧をして微笑んでいる。祖母は母からiPhoneを受け取り、看護師に対して自慢げに言う。
「カフエっていうのはな、フランスの喫茶店なんやけど、喫茶店がみな通りにテーブル出して、そこでコーヒーとか飲んだりするんよ。あ、ほいでこれ見てみ。わたしが折った鶴」
 当時わたしがよく行っていた「カフエ」に祖母を連れて行ったとき、彼女はテーブルの上にあった赤い紙ナプキンを使って大きな鶴を折ったのだった。学生がひしめくほこりっぽい「カフエ」で、大きな赤い鶴をせっせと折るアジア人女性が世界にどう映ったのかは分からないが、とにかく、ボーイのジョゼが「それはポケモン? 俺も大好きだよ」と声をかけてくれた。ジョゼの言葉をわたしが日本語に訳す前に、祖母はすまして「めるしい」と返した。なぜジョゼが鶴をポケモンと勘違いしたのかはいまだに分からないが、彼のキラキラした目と祖母の誇らしげな表情を、昨日のことのように思い出す。店を去るとき、祖母はその赤い鶴を、白いクロスの上に載せたままにした。
「とにかく、全部たのしかった。有紀ちゃんの家のお掃除をしたのも楽しかった。お布団を天日干ししたりしてなあ」
 祖母は穏やかに微笑んで母の方を見る。
「頑張ってパリまで行って良かったなあ」
 母の目が潤んでいるように見えた。
 祖母とのコミュニケーションが難しくなった今、パリまで来てくれて本当に良かった、と思うと同時に、本当に申し訳なかった、とも思う。あのとき、わたしはひと夏の恋をしていて、世界でたった二人だけの家族がせっかくパリまで来てくれていたのに、内心はいつもどこか別のところにあった。家族が来るからしばらく会えない、そう自分から言ったくせに、数日間ジョゼから連絡がなかったあの日、しびれを切らして彼が働いている「カフエ」に出向いてしまった。祖母と母にはジョゼを友達として紹介した。あのときのわたしはいつもぼうっと熱に浮かされていて、「ジョゼに会っているとき」以外の時間は、次にジョゼに会う時をただただ待つ時間だった。ジョゼと話したことはよく覚えているくせに、祖母と何を話したか、覚えてやしないのだった。なぜもっと頭をしゃきっとして、祖母との一瞬一瞬を心の中に焼き付けておかなかったのだ、と思う。
 結局、ジョゼは母国の兄の仕事を手伝うとかでその夏の終わりにパリを去り、わたしたちの関係もそれきりになってしまった。あの「カフエ」での写真は彼が撮ってくれた。親子三代がおしゃれをして、満面の笑みで写っている。手前には赤い鶴が置かれている。
「あの、この写真撮ってくれた有紀ちゃんのお友達のボーイさん? かわいらしい子やったな。」
 そう、祖母が母に言うのが聞こえてきた。
(了)