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第7回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 スサノオ対ヤマタノオロチ 酒井聡

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第7回結果発表
課 題

神さま

※応募数293編
 スサノオ対ヤマタノオロチ 
酒井聡

 小さな頃はヒーローに憧れたが、「世界は正義と悪の二項対立で語れるほど単純ではない」というモダンな思想をテレビゲームに学び、争い自体を未然に防ぐことが現代のヒーロー様式のひとつなのではないかと考えるようになった。リベラルが現代にはびこる分断をかしてくれると信じてニュースアプリ運営会社に入社して程なく、大半のユーザーが恋愛やゴシップやおしゃれカフェに時間を融かしている実態を目の当たりにした。この国の平和を象徴しているものだと無理やり解釈するのには時間がかかった。
 そう、僕たち凡人にベストなんて頭の中にすら存在しない。不調を抱えながらもどうにか「まだマシ」を継ぎぎして生きている。
 ユーザーの暇を潰すために僕は今日も早起きして、スーパーで昨夜買った半額のたまごサンドを頬張り、定刻の電車で過剰な冷房に体温を奪われながらアプリをチェックする。トップニュースにかろうじて掲載されていた報道記事は、フランスに混乱を招いている大規模ストと、誘拐の続報だけだった。誘拐犯が捕まったにも関わらず、さらわれた少年がどこにも見当たらないのだという。
 そして我が身ににじり寄る三つ目の事件に僕は薄々勘づいていた。血の気が引く。電車の音が遠ざかる。意識のほとんどすべてが肛門(以下、「スサノオ」と表現する)に集合する。半額のたまごサンドからかえったオロチがい出そうとしている。
 圧倒的便意。二次曲線を描くフンボルト。オフィスまで三駅。停車駅で大勢が乗降する。足が浮きかかるが、ここで降りると遅刻するばかりか朝イチの会議に間に合わない。
「まだいけるか?」
 僕はスサノオに問いかける。
「大丈夫だ。慣れたものさ」
 こうなって初めて僕は自分の身体が自分の支配下にはないことを思い出す。どこまで耐えられるか見当もつかない。スサノオよ、あんたが敵でなくて本当に良かった。
 同じ車両にはざっと六十人。座り客とほぼ同数が僕と同じくつり革や手すりにつかまっている。全員で便意を分かち合えば、僕たちはそれぞれの職場で余裕を持って用を足せたはずだ。しかし人類は不完全さを埋めるために貨幣を発明し、世界はいさかいに満ちている。
 スサノオだけが火照ほてる。全身の血液が野次馬に回ったのだろうか。大波が来たかと思うとまた穏やかさを取り戻す。電車は次の駅に滑り込む。伸ばしっぱなしの背中がしびれる。
「いけるのか? 大丈夫なのか?」
 僕はスサノオに問いかける。
「いけるかどうかじゃない。やるしかないんだ」
 拠りどころは気持ちのほかない。
「それに慣れない駅の階段を上がって、トイレは反対側だったと気づいた瞬間、火を吹いておしまいだ」
 車内りすぐりのおしゃれな乗客たちが若者の街に吐き出される。似たような若者が入れ替わり乗り込む。街も腸も循環している。
 ドアがプシューと音を立て、途中下車の選択肢が消える。あとはもう小細工なしのタイマンだ。手すりを握りしめ、ポールダンサーのように身体を反らし、全体重でオロチにヘッドロックをかける。見たことか。便意は完全に身動きを封じられたまま五分間を無為に過ごし、降車駅を迎えた。僕はマラソンランナーがリードを取るように乗降口に位置取って喝采もののスタートを切る。降りるべき駅で僕は降りた。オロチ、次は君の番だ。
 下腹部に刺激を与えない程度の早歩きで、列をなすエスカレーターを見送り階段を上る。いける。勝てる。オロチは昏倒こんとうしている。改札階、人の行き交う向こうにトイレのピクトグラムを認める。このまま寝首を掻く!
 ロープを抱えた清掃員と狭い通路ですれ違う。ついている。トイレは最高のコンディションだ。視界が開ける。状況確認する。四つある個室のうち三つが使用中、一つが故障中――養生テープで閉ざされている! まずい。緩みきったスサノオにオロチが咆哮ほうこうをあげる。稼げて十五秒か。
 1:小便器にぶちまける。
 2:清掃用具の洗い場にぶちまける。
 3:故障中の個室にぶちまける。おお、神よ。
 考えるより早く養生テープを剥ぎ取る。打ち合わせの後に戻ってこよう。掃除ならいくらでもする。許されるまで頭を下げよう。ズボンに手をかけ、コービー・ブライアントのように半回転しながら便座に滑り込むイメージを描く。故障中の封印を解く。残り一秒。
 そこには先客がいた。口をテープで塞がれうなだれた少年がトイレタンクにロープでぐるぐる巻きにされている。見るからに固い結び目はヤマタノオロチのようにのたうつ。イメージが霧散する。少年はヒーローを見るような目で僕を見上げた。おそらく逆光のために、彼は僕の敗戦の無表情を知らない。
(了)