超かんたん文章術4:文章の4大奥義を検証する


「よく考えよ」「読め」は妥当
思いつくまま文章の奥義を挙げると
- 「書く前によく考えよ」
- 「名文を読め」
- 「うまく書こうとするな」
- 「話すように書け」
があります。
「書く前によく考えよ」については全く異論がないでしょう。なんの構想も練らず、いきなりノープランで書き出してもうまくいかないでしょうし、抽象構成作文法で言えば、メモをたくさん出しておくに越したことはありません。
「名文を読め」ももっともなことでしょう。書かれた言葉を読む経験なしには、読むことはできません。
名文がわれわれに教へてくれるものは、第一に言葉づかひである。われわれはそれを意識の底に数多く蒐集しておき、時に応じて取出しては自在にこれを用ゐることができる。すなはち、先人の語彙、過去の言ひまはし、別の文脈のなかでのレトリックは、今われわれの文章を織るための糸となる。
(丸谷才一『文章読本』)
ただし、丸谷才一によると、必ずしも誰もが認めるような名文でなくてもいいそうです。
ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。
(丸谷才一『文章読本』)
難解な文章は悪文
次に「うまく書こうとするな」ですが、これには二つの解釈があります。
その前に「うまい」の意味ですが、初心の方に多いのが、難解な文章がいい文章だと思っていること。口に出してこそ言いませんが、書くとなると、とたんにふだんは使わないような言いまわしをしたりします。「畢竟」とか。
やたらめったら漢字を使うパターンもあります。「漢字=男の文学、フォーマル」「ひらがな=女の文学、カジュアル」という印象があるのかもしれませんが、それは戦前までの話ですね。
「うまく書こうとするな」の一つの解釈は、まずはこのようなうまい文章(実はちっともうまくない)を書くなという意味です。
もう一つは、肩の力を抜いて書けという意味。たとえば、「歴史に残る名文を書いてください」と身の丈以上の能力を要求されたら、誰だって委縮してしまいますし、それでは実力の半分も出ません。
「うまく書こうとするな」は実力以上のことを書こうと力むなという意味であって、決して「下手に書け」ということではありませんね。
話すときのような気楽さで
最後は「話すように書け」。これも多くの作家がそう説いています。
井上ひさしは著書『自家製 文章読本』の中でこれを否定したうえで、「話すように書け」と言われるようになった原因として、以下のような先達の言葉を挙げています。
林芙美子が、本郷菊坂ホテルに宇野浩二を訪ねて、小説の書き方について質問した時「当人のしゃべるように書くんですよ」と宇野さんがこたえた話は有名である。ぼくも宇野さんからじかにその話を聞いたが、宇野さんはぼくには「しゃべるとおりの書き方の元祖は武者小路実篤ですね」といってから、「しかし、調子が出たらペンは置くことですね」といわれた。またこの「調子が出たら」のつぎに「葛西善蔵はそれをしょっちゅういっていました」ともいわれた。
(水上勉「語り、文体それから」)
文字でする表現即ち文章と、言葉で以てする日常の談話の表現とに何か本質的な相違があるかのやうに考へるのが抑の迷信なのである。言葉の通りを文字にしたものそれをそつくり文章と心得て差支へない。
(佐藤春夫「法無法の説」)
江戸時代までは言と文が違い、その後、言文一致運動を経て言文が一致しましたが、「話すように書け」にはそうした思想の影響もあるようですから鵜呑みにはできません。
また、会話を録音して筆記すれば分かるとおり、話し言葉と書き言葉はかなり違い、話したとおりに書いたらおかしな文章になってしまうはずです。その意味では話すようには書けません。
では、「話すように書け」はどういう意味なのでしょう。それは「うまく書こうとするな」と同じく気構え、つまり、話すときと同じような気楽さでという意味だと考えられます。
※本記事は「公募ガイド2012年3月号」の記事を再掲載したものです。