時代小説のいろは1:時代小説に挑戦しよう
意外と書ける時代小説
時代小説を書こうと言うと、「いやいや、そんな知識はありませんから」と尻込みする人もいると思います。
確かに、ある程度の知識は必要ですが、「歴史を勉強してから」なんて言っていると、いつまで経っても書き始められません。歴史学者になろうというわけではありませんから、今ある知識で書いてしまってもかまわないのです。小説という特性を考えると、それも可能なのです。
お美津は父親の葬儀の場でも美しかった。白い頬にろうそくが照り返している。彦次の心にある少女の面影を残しているのは、そのふっくらとした頬と、秋の木の実のような黒い瞳だけだ。人の妻になったことで身に付いた落ち着きが、顎を引き、背を伸ばして座っているお美津の細い身体に、淡い色香を添えていた。
(宮部みゆき『本所深川ふしぎ草子』)
近江屋を一代で築いた藤兵衛の娘お美津の姿が描写されています。ここだけ読むと、現代小説と同じですね。
これがドラマや漫画であれば江戸時代の背景も用意しなければなりませんが、小説の場合はごまかしがきくわけです。
いや、本当はそんなことではいけないのですが、しかし、ある歴史小説家はこう言っていました。
「当時の様子がよく分からなければ、書かないでごまかしちゃえばいいのよ」
たとえば、立看板があるとします。当然、そこには文字が書かれているでしょうし、手書きでしょう。映像の場合、こうした小道具もきちんと作らないといけません。しかし、小説の場合、詳述する必要がなければしなくていいのです。
くびすを返して戻ろうとしたとき、一間と離れていないところで、向かいの呉服屋の立看板に隠れるようにしている人影を見つけた。
(宮部みゆき『本所深川ふしぎ草子』)
もちろん、物語の展開に大きく関わるようなくだりや、ディティールを書いてリアルな雰囲気を醸す必要のある箇所では別ですが、そうでない場合、小説では読者の想像力に任せてしまっていいのです。それが、ある部分では読者と作者の共同作業でもある小説という分野の特性でもあるわけです。
必要があって調べるのは楽しい
前項では、時代小説なんて書けないと思い込んでいる人のために敢えて「ある程度の知識があれば」と書きましたが、逆を返せば、歴史に関する知識がゼロでは時代小説は書けません。
前述したように、詳述せず、読者の想像力に預けてしまうということは可能ですが、江戸時代の町中の風景が頭にあって「呉服屋の立看板」と書くのと、具体的なイメージはなくてそう書くのとでは、文章から受ける印象は違ってきます。
しかし、江戸時代はテレビや映画の時代劇でもおなじみですから、『水戸黄門』や『必殺仕事人』を見た記憶でイメージすることは不可能ではないですね。
そうして書く中で、裏長屋に住む主人公が寝ているシーンが出てきて、「辰五郎は布団をかぶって寝てしまった」と書いたとします。このとき、布団について詳しく書く必要が出てきて、「はて? 江戸時代の布団って? 裏長屋の住人では華美な布団ではないよな。そもそも江戸時代に布団ってあったのかな」という疑問がわいたら、そのとき初めて調べればいいのです(ちなみに、裏長屋の住人も敷布団は使いますが、敷布や掛布団は使わず、夜着でもある掻い巻きをひっかぶって寝てしまうことが多かったとか)。
必要があって調べるのは楽しいですし、布団について調べた結果、布団に関連する知識も得られたりします。たとえば、「裏長屋には押し入れはなく、L字型になる枕屏風の陰に畳んでおいた」という豆知識が得られるとか。こうした知識だけを積み重ねていくだけではなく、書きながら蓄積していく。一挙両得です。
そうして実際に書いてみると、時代小説には現代小説にはない自由があることに気づくと思います。
たとえば、現代小説で些細なことで警官が威嚇射撃してきたら「ウソ!」と思われますが、時代小説なら抜刀したとしてもおかしくはありません。現代社会では仇討は違法ですが、時代小説なら可能ですし、違和感もありません。そういう自由はあります。
時代小説は三人称で
時代小説は、三人称で書きます。一人称はやめたほうがよいでしょう。
万六は岡っ引きである。
三人称で書いた場合、これは作者による説明とも言えます。作者が「岡っ引き」と説明しても問題ありません。
おれは岡っ引きだ。
しかし、一人称で書いてしまうと、小説の原理として地の文に書いたことも主人公の知覚ということになってしまいますから、万六は自分で自分のことを岡っ引きと言ったことになります。岡っ引きというのは蔑称ですから、自分に向かって言うのはおかしいですね。
時代小説の場合、現代人による説明が必然的に必要になり、江戸人の知覚だけでは書ききれません。そのため、時代小説は三人称で書くのが一般的です。
江戸時代らしい雰囲気を
地の文は客観的に書くことができますが、しかし、時代小説で「午前六時」とか「十円」という言葉を使ったらおかしいですね。「瓦版」や「隅田川」という言い方も同じです。江戸時代であれば「読み売り」「大川」でしょう。
間違いではないけれど、その言葉はどうかというものもあります。
たとえば、落語に出てくる長屋の熊さんや八さんのような人物なら、「なんだ、その衣服は。葬式かい?」ではなく、「なんだ、その身なりは。おともらいかい?」のように和語で書いたほうがそれらしい雰囲気を醸すと思います。特にセリフの場合は、時代劇の雰囲気を壊さないようにしたいところです。
ただ、一方で、当時の言葉遣いを再現しては読みにくく、かえって雰囲気が壊れるという場合もあります。
この点について、作品添削講座「時代小説講座」のテキスト(永井義男著)から引用します。
つぎの江戸の会話を読んで、話し手の性別や職業がわかりますか。
A「コウコウ、おめえ、ゆうべは大酒屋か」
B「アア、おめえは」
C「おれが口っぱたきなら、そっちは尻っぱたきだ」
江戸の風俗を活写した『浮世風呂』(文化六年)からで、当時の話し言葉そのままです。
Aは三十歳くらい、Bは十八歳のそれぞれ芸者です。Cは十三、四歳の子守女です。
なんと、江戸の庶民の女は一人称に「おれ」、二人称に「おめえ」を用いていたのです。
当時の言葉を忠実に再現して、小説のなかで女が「おれ、おめえ」を使えば、読者は読んでいて、話し手が男か女かわからなくなり、混乱してしまいます。
つまり、時代小説の会話は当時の再現である必要はないのです。なまじ忠実に再現していたら、かえって読者にはちんぷんかんぷんです。
当時の雰囲気が伝わるような現代語でよいのです。
では、「おれ、おめえ」でなければなんと書けばいいでしょうか。再び「時代小説講座」のテキストから引用します。
江戸時代は身分制があり、長幼の序は厳格で、男女差もはっきりしていました。
現在以上に呼称の使い分けがなされていましたが、これも忠実な再現はとても無理です。また、真剣に考えていたら書けなくなってしまいかねません。
そこで、一般に、
女の場合:あたし、おまえさん
庶民の男の場合:俺、おめえ
武士の場合:拙者、貴殿
くらいを基本にすればよいのではないでしょうか。
時代小説をどう書けばいいかは時代小説を読めば分かりますが、読むときは一読者として読んではいけません。書き手の一人として、どう書いているか、意識的に読みましょう。
つまり、ただ単に時代小説を読んだ経験があるというだけでは、書く修業としては不十分ということです。娯楽として十冊読むより、書くためのお手本として一冊熟読したほうが役に立つのです。
※本記事は「公募ガイド2012年8月号」の記事を再掲載したものです。