小説・エッセイ推敲のポイント3:セリフ周りを中心に表現方法をチェック


セリフの基本チェック
現実の会話では、「ねえ」とか「いや、まあ」のように言ったりします。そう書いてもいいですが、文章として読むと邪魔です。なるべく削りましょう。
会話でチェックしたい二点目は、問いに対して答えがあるかどうか。
必ずしも一問一答になっていなくてもいいですが、問いだけがあって、そのリアクションも何もないのは不自然です。
三点目は、長ゼリフでないか、説明ゼリフでないか。
日常会話でもどちらかが一方的に話すことはありますが、それをそのまま書いては読みにくいと思ったら、
「そうだったのか」
といった相手のあいづちを挟んだり、そこまで一気に言うと、目の前のコップの水をあおり、再び話し始めた。
といったような説明を入れるなどすると、読んでいるほうも一息つけます。
説明ゼリフは、
「これはこれは、三軒先の若い奥さん」のように、本来なら地の文に書くべき「三軒先の若い」という説明がセリフに入ってしまっているケース。普通、そんなふうに言うか、という観点でチェックしましょう。
四つ目は、セリフをひっくり返したほうが自然かどうか。たとえば、「陰で操っていたのは君だったのか」日本語としてはこれでいいですが、この場面での疑問がもっぱら「陰で操っていたのは誰なのか」だったなら、「君か、陰で操っていたのは」と言わせる手もあります。
五つ目は、あまりにも当たりまえの受け応えになっていないかです。
「今日、飲みに行こうか」という問いに対し、
「行こう、行こう」
これでは小学生の学芸会みたいで気が抜けます。このようなときは、セリフを少し飛躍させて、
「さすが、同期は考えることが同じだ」とするとか、あるいは、反語を用いて、「俺がおとなしく家に帰るような男に見えるとでも?」のように切り返してもいいです。
ただし、やりすぎは禁物。凝りすぎてセリフが飛んでしまっていないか確認!
それは誰が言ったのか
セリフを書いた以上、「と言った」のは自明のこと。そう書いてもかまいませんが、それだけで1行使うのはもったいない気もしますし、同じ表現を何度も繰り返すのも芸がない気がします。
では、「と言った」と書かずに、誰のセリフか示す方法は?
まずは、「言った」を別の言い方にする方法。垣根涼介氏の『光秀の定理』からいくつか引用してみます。
さもうんざりしたように足軽の一人が吠える。
ぼそり、と愚息がささやいた。
一言、影は爽やかな声音を吐いた。垣根涼介『光秀の定理』
「吠える」も「ささやいた」も「吐いた」も意味は「言った」ですね。
また、表情や動作を書くことで、「言った」の代わりとする場合もあります。
「刀は、返す」
新九郎は、左手に掴んでいる大小を男のほうに突き出した。(垣根涼介『光秀の定理』)
もう一つ、セリフの前の文章で主語を明示する手があります。そうすると、その主語になった人物が話者になります。
束の間黙っていると、ようやく愚息が顔を上げた。
「なんじゃ」(垣根涼介『光秀の定理』)
この法則を利用すると、同じ人物が続けて話す場合にも活用できます。
「答えは……まあ、あるがのう」
愚息はやや首をかしげた。
「じゃが、言ったところで、今のおぬしには分からんよ」(垣根涼介『光秀の定理』)
逆に言えば、直前の文章の主語が話者と違う場合、「○○は……と言った」といった文章が必要になります。
説明は過不足ないか
小説やエッセイは文字でできていますから、絵もなければ音もありませんし、読者はなんの予備知識もなく読み始めますので、ある程度、話の経緯や背景、前提とすることを説明する必要があります。
たとえば、あるセリフがあれば、それは誰に言ったか、どんな気持ちで言ったか、どんなトーンだったか、どんなニュアンスだったか、どんなイントネーションだったか、そのセリフを言う前段にはどんなことがあったか、相手はどんな反応を示したか、どんなシチュエーションで言ったのか……。さらに、時代小説やSF、ファンタジーでは、その世界のロジックも説明しなければなりません。
しかし、一から十まで説明づくしではどうにもなりませんね。
そこで推敲です。原稿を書いているときは近視眼的になりますので、説明の過不足には気づくにくいところがありますが、それを客観的な目で読み直してチェックしましょう。
まず、説明しすぎていたり、説明が重複していたり、あるいは、説明が下手でだらだらしているような箇所を見つけ、すっきりさせます。
説明は必要ですが、話の進行を阻む要素はなるべく削ります。
次に、今度はこの逆のことをします。
削りすぎてしまったり、説明不足で不親切だなと思えるところを洗い出し、痒いところに手が届くような説明を入れていきます。この加筆は、必要最低限の修正にしておきます。やりすぎると、シーン全体のバランスが悪くなります。
さらに、説明はしているものの、説明するタイミングが遅いような箇所をチェックし、適切な箇所に移します。
描写の精度
絵も音もない小説やエッセイでは、言葉を通じて、いかにその場の雰囲気を再現するかということが肝になってきますが、それを実現するのが描写力です。
しかし、たとえば、ある少女がいて、その子の頭から足の先まで克明に書いても、必ずしも情景が浮かぶとは限りません。いや、浮かぶかもしれませんが、描写を足し算で考えてしまうと、イメージの効率は悪くなります。
スティーヴン・キングは、描写についてこう書いています。
散漫な描写はピンぼけの写真と同じで、読者に戸惑いを与える。過剰な描写は大きなお世話で読者を辟易とさせる。その兼ね合いがむずかしい。話の筋を運ぶことが文章の役目で、そのために何を描写し、何を打ち捨てにするかの選択も重要である。
登場人物の身体特徴や服装をくどくどと描くのは感心できない。とりわけ、着付けの詳細は邪魔臭い。
(中略)
キャリー・ホワイトはクラスの除け者で、顔色が悪く、身なりもおよそぱっとしない、とだけ言えば、あとは読者が好きに埋めるはずではないか。ニキビの具合や、スカートの丈までいちいち書き込むことはない。
(中略)
私の見るところ、巧みな描写はいずれの場合も、選ばれた細部が言葉少なに多くを語っている。(スティーヴン・キング『小説作法』)
3段階のまとめ
第3段階では、以下のような、一文の精度を増すチェックをしていきます。
- 「セリフから感動詞を削る」
- 「セリフの受け応えは適切か」
- 「長ゼリフ、説明ゼリフはないか」
- 「セリフは不自然でないか」
- 「『……と言った』は多すぎないか」
- 「説明過多、説明不足はないか」
- 「描写は効率的か」
三人以上の会話
人物が二人の場合はセリフを書くのも比較的容易ですが、三人になると難しくなり、四人以上はプロでも苦労すると言われます。そのつど誰が誰に言ったと書くのも邪魔くさく、なんの工夫もない気がするからです。
「何百もの遺体をヘリで搬出するんですよ。前代未聞でしょうが」
悠木が言い返すと、追村は目を尖らせた。
「そんなもんは写真一発押さえときゃいい。泣かせで作れ。いいな」
悠木が押し黙ると、調停屋そのものの顔で粕谷が身を乗り出してきた。
「まあ、そう結論を急ぎなさんな。それより、悠木、さっき言った生存者の証言だが、取れる見込みがあるのか」(横山秀夫『クライマーズハイ』)
『クライマーズハイ』でも、特定の二人が話している場面では、最初に話者か聞き手が示されれば、そのあとの数回のリターンは、逐一「○○は言った」とは書かれていませんが、二人の会話に別の誰かが割って入ってきたときは、「悠木が言い返すと、追村は目を尖らせた」といったように、話者が示されています。これが三人以上の会話を書くコツです。
※本記事は「公募ガイド2013年10月号」の記事を再掲載したものです。