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私の作家修業時代5:才能があるかは考えない(清水義範インタビュー)

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作家になると公言していた

――小説を書き始めたのはいつ?

ストーリーのある話を最初に書いたのは中学3年生のときで、まだ遊び気分でした。高校2年生のとき、クラスの中にフィクションを書いて批評しあうサークルがあり、そこに入った頃から、将来は小説家になりたいと公言していました。

――目標がとても明確ですね。

私はこのサークルで修業しているつもりだったんですよ。ガリ版印刷機で同人誌を作り、ペンネームを三つ四つ使い分けてSF、純文学、青春小説を書き、編集長もやった。とにかく書くのが好きで、高校3年生のとき、250枚の長編SFを書きました。おかげで大学入試には落ちましたが。

――影響を受けた作家は?

アメリカのショート・ショートやフレドリック・ブラウンのオチの効いたユーモアSFが好きでたくさん読みました。
最初はSF作家志望だったので、こういった作品を多く読みましたが、途中からもっと自由に遊ぼうと思い、SFに限定せず、ジャンルを広げていきました。

――一年の浪人生活後、大学時代に商業誌に作品が掲載されていますね。

『宇宙塵』という有名なSF同人誌があります。星新一や小松左京、筒井康隆を出したすごい雑誌ですが、大学3年生のとき、私の作品が掲載されたんです。それが商業誌の目に留まり、『推理界』という雑誌から依頼を受け原稿を書きました。これでプロになれたと思ったんですが、その後、一作書いただけで、その雑誌は廃刊になってしまいました。

――教員のかたわら小説を書くという選択肢はありましたか。

大学の教育実習で私は子供に慕われ、校長先生からもいい先生になれると褒められていました。しかし、なまじ向いているだけに、教師になったら作家の道はあきらめてしまうだろうと思った。そこで退路を絶ち、東京でサラリーマンをやりながら書こうと決めました。

――それで上京し、就職された?

春が近づき、上京しようと考えていた頃、私の同人誌に入会したいという人が現れた。それが半村良さんでした。彼もサラリーマンをしながら書いていて、そろそろ専業作家として本格デビューをしようと考えていた。そのとき彼が書いた伝記SFが世に通用するかどうか、うちの同人誌に実験的に載せて反応を見ようと思ったらしいんです。

――半村良さんとは師弟関係?

東京に行ってしばらくした頃、半村さんから「君、弟子っていうものになりなよ」と言われたんです。私は「事実そうじゃありませんか」と答え、新進気鋭のSF作家だった半村さんの弟子になりました。ある意味、押しかけ師匠です。

――転機はいつ?

SF雑誌に10年も応募していると、編集者の人に名前を覚えられたりするんですね。あるとき、『宇宙塵』の編集者の紹介で、朝日ソノラマ(現朝日新聞出版)から電話があり、青少年向けのSF文庫に作品を書くことになったんです。それから年2冊のペースで書きながらゴーストライターをしたり、お笑い関係の本を書いていました。その後、CBSソニー出版の編集者から、1冊書き下ろしてくださいと依頼されました。そこで書いた短編集が『昭和御前試合』というデビュー作です。

やけくそから生まれた作品

――パスティーシュ(文体模倣)の作品はいつ頃から書き始めたのですか。

デビュー作を見て、『小説現代』の編集者から執筆の依頼がきたんです。大手出版社の小説誌に載ったら作家になれたと言っていいだろうと思い、必死に頑張りましたが、2回ともボツでした。そこでやけくそになりました。

――それが「猿蟹の賦」?

司馬さんの文体で、司馬さんなら絶対書くはずのない小説を書いたら面白いだろうと思い、猿蟹合戦を書いた(笑)。
学生時代から、『吾輩は猫である』の出だしを、柴田錬三郎風や星新一風に書いたりして、クラスメイトを笑わせていた。
これなら得意中の得意だ、いくらでも書けると思いました。ここでやっと自分の書くべきものが分かったんです。

――それまではなぜ文体模写の作品を提出しなかったのですか。

同人誌には書いていましたが、こういうのは小説ではないと思っていました。
やはり小説にはきちんとしたストーリーがあるものだと。

――ひょんなことからパスティーシュ文学が生まれたわけですね。

でも、実はパスティーシュという言葉を知らなかったんです。本の帯のリードコピーに「パスティーシュ文学の新人」と書かれている。調べたら、模倣して面白くしたようなものとあった。

修業時代に3000枚書いた

――ついに作家になる夢が叶いました。

サラリーマンをやりながら作家を目指すも目途が立たず、うつ状態になったこともありました。でも、作家の道をあきらめようと思ったことは一度もなかった。
その持続があったから、なんとか作家になれたのだと思います。新人賞でいきなりデビューと考え人もいるかもしれませんが、1回、2回落ちたら、5回落ちようと思わなきゃだめ。2回であきらめる人はなれない人です。とにかく、なりたくてしょうがないから書き続ける。そうすると自分の得意技がふっと発見できて、道が開けたりするものです。

――パスティーシュの意味はどんどん広がりました。

パスティーシュというレッテルを、自分専用の言葉にしようと思いました。文体の摸倣だけでは限界があるので、拡大解釈して一般人の文体の摸倣や学者の論文の摸倣も取り入れた。すると、「パスティーシュ」が私の書く変なユーモア小説という意味になっていった。

――オンリーワンですね。

世の中で受けているからと言って合わせると弱いんです。少々破天荒な小説でも、これが言いたいのだなというのが見つかると、力が感じられて、高く評価されると思います。

――作家を目指す人に役立つ勉強法を教えてください。

量を書くことです。私は変なユーモア小説を書く異彩の新人として、突如出現したと思われがちですが、デビュー前の修業時代に3000枚は書いています。
何度も落ちてだめだった時期があって、それでもまだ目指し続けていた。それくらいは書くんだという気持ちが重要です。
書くほど身になるし、力がつくんです。

――実体験から書くと良いと言われますが、どう思われますか?

リアリティーがまったくない小説は絵空事になる。細部のリアリティーを出すために、自分の経験を活用するといいですね。でも、体験談だけを書いても小説にはなりません。小説は空想で面白く作るものです。

――才能についてどう思われますか。

才能の有無はあると思います。でも、作家を目指す人は、才能があるかどうかは一度忘れたほうがいい。才能があるから入選して、ないから落選するのだと考えると、粘りがなくなるんです。私には何か才能があるはずだ、まだ見つかっていないだけだと思うほうがいい結果につながります。才能をいい訳にせず、粘り強く、何度でも挑戦してください。

 

清水義範(しみず よしのり) 

81 年『昭和御前試合』でデビュー。
86 年発表の『蕎麦ときしめん』でパスティーシュ文学の作家として注目を集める。88 年『国語入試問題必勝法』で第9 回吉川英治文学新人賞受賞。09 年中日文化賞受賞。現在、NHK 放送用語委員も務める。『世界文学必勝法』『迷宮』『夫婦で行くイスラムの国々』『if の幕末』『ドン・キホーテの末裔』など著書多数。

 

※本記事は「公募ガイド2014年1月号」の記事を再掲載したものです。