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6.20更新 VOL.27 集英社1000万円懸賞、ほか 文芸公募百年史

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VOL.27 集英社1000万円懸賞、ほか 


今回は、昭和51年~53年にかけて募集された文学賞ーー集英社創業50周年1000万円懸賞、小説CLUB新人賞、群像新人長編小説賞、エンタテイメント小説大賞、放送文化賞の5賞を取り上げる。
5賞とも今はもう終了しているが、単発の懸賞小説、純文学の長編、エンタメ小説の短編、ドラマ化の原作になる小説募集など、昭和53年は三者三様の文学賞が開催された当たり年だった。

集英社創業50周年1000万円懸賞募集、高額賞金公募のはしり

昭和51年(1976年)、集英社は創業50周年を記念し、1000万円懸賞を募集する。昭和51年に募集が始まり、昭和52年8月末に締切、昭和53年3月末に発表するという足掛け2年にも渡る大事業となった。
選考委員は、源氏鶏太、柴田錬三郎、平岩弓枝、藤本義一、渡辺淳一の5氏。いや、すごいメンバーだな、全員直木賞作家だ。賞金もさることながら、選考委員の選考料だけで1000万円ぐらいいってしまうのではないかと下衆なことを考えてしまう。

応募総数は439編。ちょっと少なめだが、規定枚数が500~600枚という長編だから妥当な数字だろう。この頃の懸賞小説は100枚の短編募集が多かったが、筆力のない人は規定枚数500~600枚を見ただけでドロップだから、439編はまずまずだ。
結果は下記のとおり。

入選作1000万円 水野泰治「殺意」
佳作100万円   木村春作「さらば国境よ」
         家坂洋子「幻の壺」

同賞の応募資格はプロ・アマ不問で、受賞した水野泰治氏は高樹純之名義で著作が10冊以上あった。受賞後は水野泰治名義で執筆したようだが、有名作家というほどではない。言い方は悪いが、一発でかいものをものにしたという感じだ。
佳作の木村春作氏は「さらば国境よ」以外には著作がないようなので、これっきりだったようだ。同じく佳作の家坂洋子氏は歴史ものの著作がいくつかあり、受賞後、そこそこ活躍したらしい。

ちなみに、家坂洋子の字面から「あれ、有名な人だよね」と思ったが、それは詩人の井坂洋子だった。なんだ、勘違いかと思っていたら、「井坂洋子の祖父は山手樹一郎」という説明に行きついた。山手樹一郎は大衆小説の大御所、長谷川伸門下で、同人誌もやっており、弟子もたくさんいた。集英社創業50周年1000万円懸賞で入選した水野泰治さんも山手樹一郎に師事しており、師匠の孫と同時に入選したわけだ。山手樹一郎が取り持つ縁だったのだろうか。

ところで、水野泰治「殺意」は、受賞後、TBSで「愛の殺意」のタイトルでドラマ化されている。主演は中野良子(知らないか)。TBSは後援になっていたから、受賞作はもともとドラマ化の予定だったようだ。出版化だけだと賞金は100万円がせいぜいだが、映像化となると途端に賞金が跳ね上がる。それはスポンサーがついて広告料が入るから。昭和の終わりから平成にかけて賞金1000万円公募がごろごろあったことがあったが、それらのほとんどはテレビ局が絡んでいた。集英社創業50周年1000万円懸賞はそのはしりだったらしい。

小説CLUB新人賞創設、入選者に柏田道夫先生が!

昭和52年(1976年)、小説CLUB新人賞が創設される。
「小説CLUB」は桃園書房が発行していた娯楽雑誌で、新人賞は第22回まで行われている。娯楽雑誌と言えば聞こえはいいが、世のおじさんたちを喜ばせるような官能とバイオレンス満載の雑誌と言えばいいだろうか。この手の雑誌は一様に「CLUB」とつくので、総称して「クラブ雑誌」と呼ばれていた。
唐沢俊一さんの「裏モノ日記」の中で、クラブ雑誌は以下のように説明されている。

 クラブ雑誌というのは戦前から戦後にかけてゾロゾロと刊行された、娯楽読み物雑誌群で、『面白倶楽部』だとか『講談倶楽部』、『探偵倶楽部』、『傑作倶楽部』など、“クラブ”と誌名につくものが多かったのでそう総称された。罵倒癖のあった百目鬼恭三郎などには、クラブ雑誌小説というのは“読者に頭を使わせずに、低俗な欲求を満たすことだけが要求され、従って文章は下品でなければならず、登場人物は紋切り型で、月並みな行動パターンと、必然性のないご都合主義の筋書きに乗って動くのが特徴”である。……
(唐沢俊一「裏モノ日記」)


なんて辛辣な! なんて適切な! 読んだことがない人にも誌面が目に浮かぶようだ。そんな雑誌なので、のちの直木賞作家が受賞者にいるということもないが、エログロというのは疲れたおじさんには一定の需要があるらしく、新人賞のほうは22年続く。規定枚数は80枚以内と応募しやすく、賞金30万円とそこそこご褒美も高い。

選考委員は、川上宗薫、笹沢左保、多岐川恭の3氏。昭和の大ベストセラーのツートップ、川上宗薫と笹沢左保、それに直木賞作家の多岐川恭。なかなかちゃんしている。その後も宇野鴻一郎、菊村到、都筑道夫、志茂田景樹、胡桃沢耕史、富島健夫といったエンタメで定評があり、ちょっとエッチなものも書くといったメンバーが顔を並べている。

以上、終わり、と思ってもう一度、受賞者を見ていて目が点になった。第17回(1994年)は該当作なしだったが、佳作に柏田道夫「大道剣、飛蝶斬り」が! 公募ガイドで「600字シナリオ」の連載をお願いしていた柏田先生がこんなところに。歴史群像大賞とオール讀物推理小説新人賞を受賞する前に、こんな黒歴史、いや違った、受賞歴があったとは。きっと公募ガイドを見て応募されたんだろうなあ。

高橋源一郎先生がデビューした群像新人長編小説賞

昭和53年(1977年)、群像新人長編小説賞が創設されている。
主催は、「群像」を発行する講談社だ。「群像」は昭和33年に群像新人文学賞を創設して20年が経っていたが、こちらの規定枚数は250枚以内、つまり、中編の賞だ。それゆえ、群像新人文学賞の長編部門を設けようということだったのかもしれない。
残念ながら第5回で終了してしまったが、そもそも長編の純文学って、書くのも大変だし、読むのもつらい。商業的に成り立たない気がする。

とまれ、こちらの規定枚数は250枚~600枚。選考委員は第1回~第3回は秋山駿、河野多恵子、野間宏、安岡章太郎、第4回から秋山駿、大庭みな子、黒井千次、佐々木基一になるが、この第4回の優秀賞(受賞作は該当作なし)は、「小説でもどうぞ」の高橋源一郎先生だ。入選作は言うまでもなく「さようなら、ギャングたち」だ。

実は高橋源一郎さん、同じ年の第24回(1981年)群像新人文学賞で最終選考まで残ったものの落選している。このときの選考委員は川村二郎、木下順二、瀬戸内晴美(寂聴)、田久保英夫、藤枝静男だったが、高橋源一郎さんの応募作「すばらしい日本の戦争」について、ほとんどの人が「わからない」とコメントしたらしい。これに対して高橋先生は「だめ」ならいいが、「『わからない』ってなんだよ」と思ったそうだ。しかし、瀬戸内晴美さんだけが作品の意図を理解したそうで、高橋先生は選考をする際、「あなたの瀬戸内晴美さんになりたい」と思って務めているそうだ。優しいね。

余談ながら、高橋源一郎さんを取材したとき、新人賞を受賞するコツは「小説の顔をしていない小説で応募すること」と言っていた。そのこころは「そのほうが目立つから」。確かに、高橋源一郎さんの小説は小説の顔をしていない作品が多い。『優雅で感傷的な日本野球』『日本文学盛衰史』『ジョン・レノン対火星人』。書店でも変なコーナーに紛れていたりする。凡人が真似したら、「小説ではない」とボツにされそう。自分は天才だと思う人のみ、小説の顔をしていない小説で応募してください。

エンタテイメント小説大賞と放送文化賞

最後に、昭和53年に創設されたが、今はもうなくなってしまった文学賞を二つ紹介しよう。

まず、一つ目は、エンタテイメント小説大賞。「小説宝石」を発行する光文社がプロ、アマを問わず募集した文学賞で、規定枚数は60~100枚。賞金100万円。選考委員は黒岩重吾、笹沢左保、清水一行、三浦朱門の4氏。
戦後もしばらくは大衆小説、大衆文学と言われていたが、昭和40年代あたりからエンターテインメント小説と呼ばれるようになる。昭和53年にこれが文学賞のタイトルとなったということは、エンタメという言葉が定着したことを示すと言ってもいいだろう。

それにしてもエンタメ小説という割に規定枚数が少ない。これではエンタテインする前に枚数が尽きてしまいそうだ。群像新人長編小説賞は純文学なのに規定枚数が250~500枚と長く、エンタテイメント小説大賞はエンタメ小説なのに枚数が短い。逆だよね。

入選者は、どことなく小説CLUB新人賞とダブっている印象がある。今でも、小説推理新人賞と創元ミステリ短編賞のように募集内容が似ていて、こっちで落選したら、それをブラッシュアップしてあっちに出すということがあるが、エンタテイメント小説大賞も小説CLUB新人賞と掛け持ちをする人が多かったのかもしれない。
公募は第10回で終了してしまったが、最終回の第10回(1987年)のときに、のちの直木賞作家、中村彰彦(受賞作は「明治新選組」)を発掘している。ロウソクの火が消える直前の“ぽっ”だったのかもしれない。

もう一つは、放送文学賞。テレビ放送開始25年を記念して、日本放送作家協会と日本放送出版協会が創設。NHKの後援を得て、ドラマの原作となる小説を公募した。
賞創設時はテレビドラマ原作小説懸賞募集のタイトルだったが、すぐに放送文化賞に変更されている。母体となっている媒体が「放送文化」だったからだが、放送文化賞ではなんだか放送関係者の功労賞のようだ。

規定枚数は300~400枚、賞金500万円、選考委員は杉本苑子、新田次郎、橋田壽賀子、山田太一。いや、すごいな、これならさぞかし応募が殺到しただろうと思ったが、第1回こそ応募総数535編にのぼったが、第2回は229編、第3回は151編、第4回は128編と見事な右肩下がり。しかも、受賞者を出したのは第3回だけで、それ以外はすべて該当作なし。これでは応募は集まらない。水は低きに流れると言うが、低調に見える公募に人は集まらないのだ。

そもそも「ドラマの原作となる小説を公募」がいけない。そのほうが応募が多いと思ったのだと思うが、それでは脚本家が発掘できないし、小説家の育成もできない。いいとこ取りを狙って二兎を得ず、虻蜂獲らずになった好例(悪例)として公募を企画する際の参考とさせてもらおう。
それにしても昭和50年代の文芸公募の充実ぶりよ。まだまだ面白い文学賞がたくさんあるので、次回に乞うご期待!


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