第30回「小説でもどうぞ」佳作 種も仕掛けもございません 柚みいこ
第30回結果発表
課 題
トリック
※応募数237編
種も仕掛けもございません
柚みいこ
柚みいこ
「信也、すまなかった」
久し振りに会った父親は、気まずそうに
「割と元気そうじゃない」
声を掛けながら彼の心は数年前へ飛んだ。
信也が学校から戻ると、家の奥から父親の呼ぶ声がした。行ってみるとリビングのテーブルの上に、青い飛行機が浮かんでいた。
「わあ、模型飛行機だ」
信也はランドセルを床に置き、もっと近くで見ようとしたが、近づくにつれ飛行機の形は歪んでいき、それは紙に描かれた絵であることが分かった。
「これはトリックアートっていうんだ。ある一定の方向から見ると、立体的に見えるように計算して描いてあるんだよ」
自慢気に説明する父親を信也は尊敬の眼差しで見上げた。
「すごーい。お父さんが描いたの?」
「うん。次のマジックで使おうと思うんだ」
信也の父親は有名な奇術師だった。
「さあ、種も仕掛けもありませんよ」
大勢の客たちが見守る中、華やかな衣装の父親が秘密めいた大箱を大仰に開けて見せると、アシスタントの母親が優雅な足取りで箱の中に滑り込む。彼女が配置に付いたところで父親は何食わぬ顔でパタンと蓋を閉めて、小道具入れから大きな剣を取り出すと、豪快に箱の上からブスリ。けれどもあら不思議、蓋を開けてみれば母親は傷一つなく元の通り。
当時、テレビや舞台で引っ張りだこだった両親を信也は心から誇らしく思っていた。それなのに、家の中では喧嘩が絶えなかった。原因は信也には分からない。激しい言い合いが始まると、信也は急いで自分の部屋へ戻り、いつもベットに潜り込んでいた。
どうか早く嵐が過ぎ去りますように。
そう願っていたからだろうか。やがて母親はいなくなり、嵐は二度と起きなくなった。
「信也、何か描いて欲しいものあるかい?」
信也があまりにも素直に喜んだからだろう、父親が機嫌よく訊いてきた。
「ホント? じゃあ、お母さん」
一瞬、父親の顔が強張るのを信也は認めたが、頷いたときには、いつもの父親だった。
「よし、後で描いてやろう」
その晩、父親は夕食を終えると書斎にこもってしまった。恐らく母親の絵を描いているものと信也は思い、テレビを視ながら絵が出来上がるのを待っていたが、いつの間にかウトウトとソファーで寝てしまった。
「信也、出来上がったよ。来てみなさい」
父親に起こされたのは、夜もだいぶ深まってからだった。
書斎のドアを開けて、信也は「あ」と声を上げた。机の上に母親の顔が、ぽっかりと浮いていたからだ。それは飛行機のときのように色付けされていない鉛筆画のままだったので、まるで灰色の胸像のように見えた。けれども、その黒い瞳は生きいきと輝き、真っ直ぐに信也を見返していた。
「……お母さん」
思わず
「信也、ごめんな」
どうして謝るの、と信也が父親を振り返ったとき、聞き覚えのある声で呼ばれた。
「信ちゃん」
「え? お母さん」
慌てて信也が向き直ると、驚いたことに、中空に浮かんでいる母親の絵が喋っていた。
「そうよ。お母さんよ」
「どうして?」
答えを求めて父親を振り仰ぐが、父親も驚愕の表情を浮かべたまま固くなっていた。
「ねえ信ちゃん。お母さんね、殺されたの」
「どういうこと?」
「お母さん、お父さんに殺されちゃったの」
鉛筆画の目がゆっくりと閉じて、涙がポツリと流れ落ちた。
「お母さん!」
信也が駆け寄ると、立体的だった母親の顔は、ただの間延びした平面的な絵になっていた。もう一度父親を振り返った。
「すごいね。すごいよお父さん。これ、どんなトリックになっているの?」
相変わらず書斎の入り口で突っ立ったままになっていた父親は、興奮した信也に呼び掛けられて、はっと硬直を解いた。
「あはは、内緒だよ」
さすがお父さんだ。次のマジックも、きっと大評判になるぞ。
「だけどこれ、ちょっと怖いよ」
「そうだな」
だが、新しいマジックが披露されることはなかった。父親が警察に自首したからだ。
信也がそのことを知ったのは、更に数日が経った後だった。突然、祖母の家に預けられて、学校も転校させられての果てだった。
少年の心は大きく傷付き、父子の繋がりは一旦途切れるが、大人になると信也は再び父親に会ってみたいと思うようになった。
そうして今、分厚いアクリル板の向こうに年老いた父親がいる。
「信也、立派になったな。見違えたよ」
次から次へと繰り出される父親の質問が落ち着くのを待ってから、信也は一番知りたいことを尋ねてみた。
「ねえ、あの時の母さんの絵なんだけどさ。あれって、やっぱトリックだったんだよね」
その途端、父親の顔から笑みが遠のいた。
「あれには種も仕掛けもない。だから、父さん自首する気になったんだ。なあ信也、種のないマジックほど怖いものはないな」
(了)