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描けば心も財布も満たされる!エッセイ公募1:可もなく不可もない文章が輝くレトリック15選

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1.漸層法

漸層法とは、叙述するにつれて、だんだん盛り上がってくる書き方。浅いものから深いもの、粗雑なものから精密なもの、静から動、低い内容から高度な内容へと読み手を導き、最後に最高潮に達する。

楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私ささや語く。凩こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。

(国木田独歩『武蔵野』)

なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、崖に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった。

(石川淳『紫苑物語』)

漸層法は、情景や理論の中に無理なく読者を引き込めるという効果がある。漸層法とは逆に、だんだん低いほう、程度が小さいほうに尻すぼみになる反漸層法というのもある。

2.反復法

反復法は、同じ言葉を繰り返すことで強調する修辞法。
「広い広い海」などがそうで、詩歌によく用いられる。

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳ちた足らひし母よ

(斎藤茂吉)

「広い広い」などは畳語法とも言うが、直後に繰り返すのではなく、ある文脈の中で同じ言葉を意図的に用いる畳点法というものもある。

さて、題だが……題は何としよう? 此こいつ奴には昔から附つけあぐ倦んだものだッけ……と思案の末、礑はたと膝を拊う って、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬところだ、と題が極きまる。

(二葉亭四迷『平凡』)

「私は下着姿で香水を吹きつけ、吹きつけた液体が蒸発するのを待って」は、「私は下着姿で香水を吹きつけ、蒸発するのを待って」でも意味は同じだが、敢えて繰り返したのは、そのほうがリズムがよくなるからだ。

3.前辞反復

前辞反復は反復法の一つで、先行文の文末(またはその近く)にあった言葉を、後続文の文頭(またはその近く)に持ってくる修辞法。前の文の最後を次の文の頭に持ってくるため、尻取り文とも言う。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

(夏目漱石『草枕』)

〈 住みにくい。〉から〈住みにくさが……〉とつないでいるところが前辞反復。そのあとの〈……安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても……〉は同じ言葉ではないが、前辞反復のバリエーション。この修辞法を知っていると、接続詞を省略したいときに助かる。
ちなみに、〈智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。〉は言葉の反復ではないが、「○○すれば○○だ」という文型が反復されている。

4.対句法

 対句は、同じような文型の言葉を対にして並べる方法。
文型が同じなので調子が整い、心地よいリズムを刻む。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

(宮沢賢治「雨ニモマケズ」)

「○○に○○あれば、行って○○し」という文が2 つ並んでいる。原文では「東二」「西二」「南二」「北二」と4つ並んでいて、意味の上でもセットになっている。
対句法は、もともと漢詩の作法から来ている。

「頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う」

(李白「静夜思」)

は、「頭を○○して」と「○○を○○する」が対になり、読んでいて気持ちいい。
読む人は、「頭を○○して」と言われると無意識のうちに「○○を○○する」という文型が来ると推測して先を読むが、そのとおりにならないと肩透かしを食わされたようで、なんとも尻の座りが悪い。

5.挙例法

 たとえば、「その人は忙しい」と書いても、それでは抽象的でどう忙しいかわからないとき、読み手が実感できるように具体的な例を挙げるのが挙例法。
 

徹夜の仕事のあと、あまり空腹だと寝つかれないので、軽くパンくらい食う、それが終るか終らないに、予科で、八時初りの多い欽造の朝飯、暫くして森山、寝坊な昌一がその次、三時半頃に、主あるじ人たちの朝飯、五人家内の風呂、六時には森山と兄弟二人の晩飯、少しおくれると、腹がすいたで大騒、それをひとたてすまして、大抵一人や二人は客のある、(中略)その間に、女中たちの三度の食事や入浴も挟まるのだから、その総てに気を配らなければならないおこうの忙しさというものは、いい加減な料理屋、待合の女将の、遠く及ぶところでなかった。

(里見弴『本音』)

これだけ実例を挙げれば、女将の忙しさが嫌でも実感としてもわかるだろう。
ただし、普通はここまではやらず、一つか二つ、端的な例を挙げるにとどめる。やりすぎてしまうと、読み手をしてもう勘弁と辟易とさせてしまう。

6.省略法

書かなくてもわかることは書かないのが省略法。
「A→B→C」と続く文脈があり、ここからBを抜いた「A→C」を読んだとき、読み手は一瞬、「文が飛んだ」と思うが、すぐに意味を理解する。ここがポイント。

私は、この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いである。けれどもこの七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役目をなした。発表の当時こそ命かけての意気込みもあったのであるが、結果からしてみると、私はただ、ジャアナリズムに七篇の見本を提出したに過ぎないということになったようである。私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。慾がついた。

(太宰治『もの思う葦』)

最後のほうは意味が飛んでいるように思えるが、意味がわからないというほどは飛躍しておらず、ちゃんと通じる。「え?」とは思うが、すぐに答えを得る。結果、右脳が刺激されて、クイズに正解したときのような快感を生む。ただし、飛躍しすぎると意味不明な文になる。

7.体言止め

 体言止め、つまり名詞で止める書き方。これがうまい作家と言えば太宰治だろう。

娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。

(太宰治『富嶽百景』)

ただ、むやみにやっているわけではない。まず、体言止めは1か所だけにしていること、そして、「見ると、雪」で何?と思わせて、そのあとに「が降ったのだ」という着地点を用意していること。ここがポイント。

「おいおい、その綱を切っちゃいかん。死なばもろとも、夫婦は二世、切っても切れねえ縁の艫綱、あ、いけねえ、切っちゃった。助けてくれ!」

(太宰治『お伽草子』所収「カチカチ山」)

 この場面ではセリフだけに体言止めを使い、ここでは引用していないこのあとの説明文になると体言止めは控えている。ここもポイント。

8.曲言法

 曲言法とは、まともには言わず、遠まわしに言う方法。間接表現、婉曲表現とも言う。

現在連れ添う細君ですら、あまり珍重して居らん様だから、其他は推して知るべしと云っても大した間違はなかろう。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

奥さんにすら珍重されないのだから、まして他人の女にもてるわけはないということを遠まわしに言っている。
曲言法は、もっと細かく分けると、稀簿法、迂言法、曖昧語法、側写法がある。
稀簿法は「便所」を「手洗い」というように言い方を薄める方法。
迂言法は「効果はなかった」とは言わず、「期待された結果は得られなかった」と言う方法。
曖昧語法は「初夏の山々を見る」と言わず、「山々の初夏を見る」のように焦点をぼかした言い方。
側写法は「成績は悪い」とは言わず、「成績は後ろから数えたほうが早い」のように視点をずらして表現する方法。
はっきり言わない分、品がよい感じが出る。

9.否定表現

「雨が降らない」のような言い方が否定表現だが、単に否定したのではないものもある。
たとえば、「雨が降りませんね」(降るといいですね)がそうで、婉曲表現に近い。
また、二重否定という表現もある。

元来吾輩の考によると大空は万物を覆う為め大地は万物を載せる為めに出来て居る̶̶如何に執拗な議論を好む人
物でも此事実を否定する訳には行くまい。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

二重否定は、否定を打ち消すわけだから、これは強い肯定を意味する。

理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ。

(小林秀雄『ゴッホの手紙』)

論文ではしばしばこのような書き方をする。紛らわしいものを切り捨てながら核心に迫るときに向いている。

10.導入部

照応型は、「カフェ」の場面や話題で始まり「カフェ」の場面や話題で終わるなど、最初と最後の場面や話題がそろっている構成。

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。
    ̶̶詩篇、第百二十一。 

(太宰治『桜桃』)

これは唐突型。最初に格言や箴しんげん言などを置き、テーマを象徴させ、内容を示唆する。

きょう、ママンが死んだ。

(カミュ『異邦人』)

急に頬をぶたれたような衝撃が走る。これは張り手型。

木曽路はすべて山の中である。

(島崎藤村『夜明け前』)

これは俯瞰型。神のような視点で作品世界を俯瞰したような書き方。ワイドな画角から入るタイプ。ただし、一人称の場合は、こうした客観描写はしにくい。

11.結び

 文章には必ず問いがある。芥川龍之介の『羅生門』は、

或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 

で始まるが、これを読んだ人は、その下人はどうしてどうなった?という問いを感じる。それに答えたものが結びで、芥川はこう書いている。

下人の行方は、誰も知らない。

 

問いに答えなければ文章は終われないが、最後になって理屈っぽいことを書くと印象が重くなる。そこで結論はその前に書いておく。
芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を通して言いたかったことは、地獄からぬけ出そうとする無慈悲な心が罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまっただが、これを最後にせず、そのあとにこう書いている。

極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。(中略)何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

 

つまり、いったんは結論めいたことを書いて文章を締める。しかし、そのままではかっちりしすぎるので、締めたあとにふわっと放す。それが余韻となる。

12.心理描写

 描写は、実際の感じや状態がはっきり思い浮かぶように書くこと。しかし、「怖かった」「緊張した」「うれしかった」のように心情をそのまま書くのは心理描写ではなく、心理の説明。
では、描写と説明はどこが違うか。描写の基本は写生で、情景をありのままに写す。そのときに感じたことも書いていいが、「うれしかった」のような説明的な表現はしない。生な感情は排除し、排除することでそこに書かなかった感情を伝えるのがコツ。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這い入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分程這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った

(谷崎潤一郎『春琴抄』)

佐助が自らの目を針で突く場面だが、ここには生な感情表現はなく、冷静な観察者のように事実だけを写して再現している。心理は書かず、読者に感じてもらう。出来事を通して読みとってもらう。これが描写の基本。

13.現写法

「夏が来た」と書いた場合、そこには時間がある。これを「夏が来る」と書くと、春が過ぎれば夏が来るといった現象や状況のことになり、そこに時間はない。
出来事を書く場合、それは過去のことだから時制は過去形になる。しかし、日本語は過去のことも現在形で書ける。過去のことなのにあえて現在形で書くのを現写法と言う。

今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼めを覚ますと、戸外で誰かがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行くうちに、いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。

(中島敦『山月記』)

 最初の2つの文は過去形でも書ける。しかし、現在形にしたことで時間がなくなり、過去のことが今現在起きているように思え、臨場感が出る。やりすぎはだめ。過去形をベースに語ってきて、その中に交えるのがコツ。

14.誇張法

枕のまわりに、夜通し挘むしり取った髪の毛が、掃き集める程散らばっていた。

(内田百閒『掻痒記』)

誇張法は、少し大げさに書く方法。本当に「掃き集める程」だったかは確かめようがないが、そう書かれるとそれほど痒かったのだなということがよくわかる。

その中の一人、上等そうな銀色の着物に銀色の帯をしめた中年過ぎの人が、石畳につまずいたかして、つんのめった。思わず衣服を庇ったためだろう、頭から突っ込むような倒れ方をした。頭骨と石畳がぶつかって、ごっとんという音がした。それから手帳を握ったまま、ごりごりと石と髪の毛がこすれ合う音をさせて、頭だけで全身を支えて擦っていったが、とうとう最後には力尽き着物と帯の部分も地面について、平たくなった。

(武田百合子『遊覧日記』)

「ごりごりと石と髪の毛がこすれ合う音」は作者には聞こえなかったと思うが、想像を交えて書くことによって、より実際に近い状況を再現することができる。

15.未決のテクニック

連続ドラマなどで、主人公が殺されそうになって終わると、続きが気になる。これが未決のテクニック。
ただ、変に答えを先延ばしにすると、「続きはCMのあと」と言ってCMに入り、CM明けにまた「続きは」と言われたようなストレスを感じさせるので要注意。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

(太宰治『葉』)

これを〈ことしの正月、よそから着物を一反もらった。〉で書き始め、〈そのときは死のうと思っていたが、夏まで生きていようと思った。〉と書いたら、わかりやすくはあるが、特に面白みはない。
太宰のすごいところは、「死のうと思っていた……それで?」と思わせているのに、読み手に答えを急かさせず、しかも、文章自体は至極普通に時系列であること。暗記するぐらい読み込んで真似しよう。

参考資料:『センスをみがく文章上達事典』(中村明著・東京堂出版)

 

※本記事は「公募ガイド2017年9月号」の記事を再掲載したものです。