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第31回「小説でもどうぞ」最優秀賞 嫁ぐ私 住吉徒歩

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小説でもどうぞ
第31回結果発表
課題

ありがとう

※応募数253編
嫁ぐ私 
住吉徒歩

「お母さん、今日までありがとう」
 来月、嫁ぐ私。これを言わずに東京へは戻れない。そう、私はこの一言を言うためだけに高い新幹線代を払って帰省したのだ。
 なのに、母はそれを言わせてくれない。おもしろ顔面パックをしてみたり、おもしろヨガのポーズをとってみたり。
 私が「今だ!」と母に声をかけようとすると、その雰囲気をぶち壊すような行動をとるのだ。
「わざとやってる?」
 喉の奥まで出かけた言葉を呑み込む。ここで母と口論になったら終わりだ。しんみりと感謝の言葉を口にする空気には二度と戻らない。中学、高校と毎朝毎晩言い争ってきた長女と母だから分かる。「口に出すべきじゃない」と頭では分かっていても、傷つける言葉を口にしてしまうことが多々あった。
「ホント、ごめんね」
 心の中で呟く。思春期の頃を思い出すと、後悔で涙があふれてくる。母には心労をかけた。悪い娘だったね。だからこそ、ちゃんと言いたいのだ。
「今日まで育ててくれて本当にありがとう」
 何度も練習してきた言葉だ。新幹線の中でもブツブツと繰り返した。そして、とうとう今夜伝えるのだ。
 時計はもう午後十時。夕食も後片づけも終わって、早い時間に入浴も済ませた。あとは寝るだけ。一日の終わりのタイミングに、私はそっと話を切り出す。
「来月、嫁ぎます。お母さん、今日まで育ててくれてありがとう」
 それだけ。それさえ伝えられたら何も思い残すことはない。
 さあ、ヨガも終わったようだ。今こそ言う時だ。
「お母さん……」
 すると今度は、ダイエット動画を見ながら妙なステップを踏み始めた。
「ねえ、それ今日初めてやったでしょ!」
 ツッコミたくなる気持ちを抑えて、ぎこちなく手足をバタつかせる母のおもしろダンスステップを見つめる私。
 絶対に口論はしたくない。そろそろ「おもしろ○○」のネタも尽きるだろう。次のアイデアが浮かばなくなった時が、その時だ。
 コロナ禍の三年を挟んで、私の足はすっかり実家から遠のいた。物価高もあり、遠距離の交通費はバカにならなくなった。それでも久々に帰ってきて、明日もう東京に戻るなんて寂しいよね?
「もっとゆっくりできたらいいのに……」
 母もそう思っているに違いない。
 だが、現実は厳しいのだ。パートのシフトが明後日には入っている。
 いよいよやることがなくなった母が冷蔵庫の整理をし始めた。チャンスだ!
「母さん、ちょっといい?」
 私に促されて、母がダイニングテーブルの対面に座る。
「あのさ」
「ちょっと待って! この前、いいお紅茶をもらったの」
 席を立とうとする母。
「いらない! 今、飲んだら眠れなくなるでしょ?」
 渋々座り直す母。咳払いする私。
「あのさ……来月」
「ちょっと待って! おいしいバームクーヘンが」
「いらないって言ってるでしょ!」
 我慢の限界だった。
「バームクーヘンなんて食べないの! 何時だと思ってるの!」
 私の剣幕にうろたえる母。
「何なの? 一言挨拶したいことぐらい分かるでしょ! 親だったらッ」
 母がうつむいて黙り込む。
 私は怒ってるわけじゃない。ただ、切ないのだ。育ててもらった感謝を時間に追われながら伝えようとしていることが。
 こんなハズじゃなかったと思いながら、でも一旦火を吹いた私の口は止まらない。
「有給は新婚旅行で使いたいから今晩しかないの! 一言『ありがとう』を言わせてよ。連泊はできないの! 分かる? ふざけるのはやめて。怒るよッ」
 誰が見ても私はすでに怒っているのだろうが。
 ピンポーン。
「誰?」
 私の問いに答えず、母はそそくさと玄関へと急ぐ。
 誰だろう? 私も玄関へ出た。
「えッ!」
 そこに立っていたのは父だった。正確には「元」父。
 私が父の視界に入っていることが悪夢のように感じた。最後に父を見たのは十数年前、父が家族から抜けた日だ。私はまだ高校一年生だった。
 いつの間に母に玄関の鍵を開けてもらえる立場になったの?
 これがサプライズなら完全に失敗だ。私にとって父は許せるとか許せないのレベルを越えた存在なのだ。
 母の「おもしろ〇〇」は父の帰りを待つためだったの? 私の結婚話をきっかけにヨリが戻ったの? 私のおかげ? 絶対に嫌だ。私の結婚を父のために利用されたくはない!
「風呂に入るぞ」と父は浴室へ直行した。今夜泊まるつもりなの?
「マヤはお父さんにも結婚式に出てほしいんでしょ?」
 笑顔で話す母。
 言葉を失う私。
「言ってないよ……そんなこと」
 母と私、妹の三人を地獄へ突き落とした人だよ? あれから私たち家族がどんなに大変な思いをして暮らしてきたことか。そんな父を「結婚式に呼びたい」なんて一ミリも思ったことはない。
「サヤがね、お姉ちゃんが言ってたって」
 妹のサヤがこのとんでもないサプライズの仕掛人だった。怒りが沸点まで上昇する。これ以上、耐えられない!
「サヨナラ」
 私の口からお別れの言葉がこぼれた。
「サヨナラって?」
 不安そうな母の顔を横目に見る。
 サヨナラって誰に? 父に? 母ではない。じゃ、この家に? 生まれ育ったこの町に?
 涙が出た。たった一人の父という人間のために、私は何を捨てようとしているのか? そこまで憎む相手? さっきまで忘れていた存在なのに! サヨナラと言ったものの、廊下で立ち尽くす私。
「ああ、いい湯だなぁ」
 お風呂場から父の太い声が聞こえてきた。久しぶりに聞く、おおらかで包容力のある声だ。
「ありがとうな、マヤ」
 少しエコーがかかった声が私の鼓膜を突き、魂を揺さぶった。