100年後はどうなるのか|テンマル未来予想図


今年は2026年。100年前はというと1926年、奇しくも昭和元年だ。
一方、今から100年後というと、2126年。
句読点は、100年後にはどうなっているのだろうか。
今回はテンマルの未来を予想してみる。
テンマルは100年前も今と変わりはない
100年後のテンマルについて考える前に、100年前のテンマルについて確認してみよう。
約100年前の1927年(昭和2年)に芥川龍之介と谷崎潤一郎が論争しており、その文章が残っている。
論争は、まず芥川が批判し、それに対して谷崎が反論、さらにその反論に対する反論として、芥川は「文芸的な、あまりに文芸的な」という文章を書いている。
その冒頭が以下。
僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。
(芥川龍之介「文芸的な、あまりに文芸的な」)
仮名遣いは歴史的仮名遣いではあるが、テンマルについては、私たちがやっている書き方とほぼ変わらない。明治時代の中期に始まったテンマルのルールが、この時期には浸透し、定着したと見ていいかもしれない。
ちょっと違うかなと思うのは、パーレン(丸カッコ)の中の句点(マル)。
……立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若し厳密に……
現在では、これは以下のようにすることが多いかもしれない。
……立つものである(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない)。若し厳密に……
しかし、これは100年間の変化というより、書き手による揺れに近い。
つまり、今も両方あるということだ。
一方、論争相手の谷崎潤一郎はどういう文章を書いているかと言うと、1933年(昭和8年)に『陰翳礼讃』という随筆を書いている。
今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯や水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。
(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)
芥川龍之介にしても谷崎潤一郎にしても、句読点については現在と変わらず、しかも、それ以外のくぎり符号はあまり使っていないということでも共通している。
くぎり符号というは、「文章の構造や語句の関係を明らかにするために用いる」もので、具体的には以下の5つがある。
句点(マル) → 。
読点(テン) → 、
ナカグロ → ・
かっこ → ( )
かぎ → 「 」『 』
さらに谷崎潤一郎は、『文章読本』の中で、このほかのくぎり符号として、以下の4つを挙げている。
疑問符 → ?
感嘆符 → !
ダッシュ → ――
点線 → ……
ダッシュはダーシとも言い、点線はリーダーとも言うが、それはさておき、谷崎潤一郎はくぎり符号として挙げてはいるものの、自身は上記の4つの符号をあまり使っていない。
『文章読本』の中でこう言っている。
疑問符や感嘆符なども、西洋では疑問や感嘆のセンテンスには必ず打つことになっておりましたが、日本では気分本位で、決して規則的には行われておりません。さればこれらの符号や点線やダッシュ等を、時に応じて抑揚或は間の印に用いることは差支えありませんけれども、日本文の字面にはダッシュが一番映りがよく、感嘆符や疑問符は、ややともすると映りが悪いことがあります。
(谷崎潤一郎『文章読本』)
つまり、外来語由来の記号は日本語の文章に合わないと言っているわけだ。
文豪以外の文章でも、戦前は、テンマル、ナカグロ、カッコ、カギ、ダーシは見るが、疑問符、感嘆符、点線はあまり見かけない。
戦後もこの傾向は残り、1978年(昭和53年)の『潮』5月号に、富岡多恵子はこう書いている。
日本語なのに括弧や引用記号や感嘆符や疑問符といったものが多いのはかなわない。
(富岡多恵子『潮』5月号)
今も硬派の文章では「?」や「!」は使われない。
すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する!
「!」なんかつけたら、「有するんだもん!」と言っているようで、威厳も何もない。
文学作品もそうだが、記号は必要最低限に抑えられているはずだ。
しかし、ご存じのように、もっとカジュアルな文章では、「?」も「!」はもちろん、「…」も日本語の中に頻繁に登場し、しかも、句読点代わりに使われるようになっている。
100年後にはテンマルはなくなる?
テンマルは、書物や論文など、縦書きで1行が長い文章ではなくならないと思うが、現在のSNSを見ていると、100年後はくぎり符号のテンマルは使われなくなることが予想される。
SNSは横幅が短く、しかも、LINEなどはふきだしのような枠に書かれるので、テンマルをつけなくても済んでしまうのだ。
結婚おめでとう
とても素敵!
羨ましくて死にそう…
改行していればそこで切れているとわかり、一つのふきだしが終われば、そこで文も終わったとわかる。テンマルは不要だ。
しかし、以下の場合はどうだろうか。テンがないと困る。
出版社はいらない。
「出版社は、いらない」と言いたいのか、「出版社、入らない」と言いたいのか。
ひらがなが続くとどちらかわからず、誤読される可能性が高くなる。
とはいえ、そんなのは文脈でわかるだろうし、誤読したら誤読したで、「あ、そう読むのね」で済む。
しかし、以下の場合は、「誤読しました」では済まされない。
5万円と3万円の7倍の額を徴収します。
〈5万円と、3万円の7倍の額〉なら26万円。
〈5万円と3万円の、7倍の額〉なら56万円。
徴収額に30万円も差があったら困る。看過できない!
このようなケースでは、依然として句読点が使われそうだ。
しかし、要はどっちかわかればいいだけだから、句読点ではなく、以下のような方法で区切られるかもしれない。
出版社は いらない。 → 半角スペース
5万円と3万円の/7倍の額を支給します。 → 半角スラッシュ
考えたら、くぎり符号に使えそうな記号はけっこうある。
コロン → :
セミコロン → ;
波線 → ~
ハイフン → -
アスタリスク → *
等号 → =
不等号 → < >
ゆえに → ∴
これらの符号を使い、将来はこんなふうに書かれるかもしれない。
用がある場合;声をかけてください。
山田太郎₌水島新司のマンガの主人公は甲子園大会に5回出場した。
もうすでにSNSでは用例がありそうだが、しかし、実際にどの符号が定着するかは合理性があるかどうかにかかっている。
合理性、すなわち、むだなく能率的であること、これが絶対条件。
その意味では、「……」は分が悪い。
この記号はキーボード上になく、「てん」と入力して変換しないと出てこないから、将来的には使われなくなるかもしれない。
実際、「……」の代わりに、「・・・」や「、、、」「。。。」を使う人が増えている。そのほうが便利だからだろう。
ただ、どの符号にしても需要があれば、パソコンやスマホのインターフェイスが変わり、パソコンのキーボードやスマホの画面の押しやすいところにキーがある端末が登場するかもしれない。
と、これまでは既存の記号だけを考えてきたが、将来的には誰かが新しいくぎり符号を発明するかもしれない。
スペイン語などでは、文頭に感嘆符(!)の逆向きの符号(¡)が使われるそうで、そうしたものも登場するかもしれないが、そもそも100年後は文字によるコミュニケーションがなくなっている……? と考えてみたが、文字の歴史は数千年。手紙がメールに変わっても文字は残っている。まだまだ当分はあり続けそうだ。