第31回「小説でもどうぞ」佳作 ありがとうを言ったら死ぬ 柚みいこ
第31回結果発表
課 題
ありがとう
※応募数253編
ありがとうを言ったら死ぬ
柚みいこ
柚みいこ
雄介が居間でテレビを視ていると、唐突に横から声がした。
「爪切り」
何事かと声の主を見遣ると、新聞を広げていた父親が顔も上げずに右手のみを差し出してきた。
「おい、爪切り」
早く寄こせと急かす尊大な態度に軽く怒りがこみ上げたが、雄介は棚の引き出しから使い込まれた爪切りを取り出し、握り手を相手に向けて「はい」と渡してやった。対して父親は無言で受け取り、黙々と爪を切り始める。これが、雄介が子供の頃から変わらない、家での父親の姿だ。
雄介は溜息をつきながら立ち上がると、台所で夕飯の支度をしている母親の元へ行った。
「親父、相変わらずだね」
キャベツを刻んでいた母親が、なんのこと、と手を止めた。雄介はガス台にある鍋の蓋を開けて中を覗き込みながら、ぶっきら棒に言った。
「偉そうっていうかさ。別に『ありがとう』くらい言っても良くない?」
膨れた顔で菜箸を取り、鍋の中で煮込まれているジャガイモを一つ捕まえて口に放り込んだ。
「アチチ」
その姿に母親が目を細める。今晩は久し振りに帰ってきた息子のらめに、彼の好物の肉じゃがをこしらえたのだ。
「お父さんが『ありがとう』を言わないのなんて、今に始まったことじゃないわよ」
その数日後、突然、父親が入院することになった。定期的に受けていた健康診断で異常が見付かったのだ。
連絡を受けた雄介が慌てて大学を休んで飛んでいくと、四人部屋のベッドに横たわる父親がいて、それに付き添う母親もいた。「水」「鼻紙」「テレビ」、父親の端的な要求に、その都度、母親は「はいはい」と細やかに応じている。
流石に見兼ねて「『ありがとう』ぐらい言えば」と進言したが、「そんなの言わなくても分かるだろう」と、当人は気にも留めない様子だ。とっくの昔に諦念している母親は、ひたすら笑みを浮かべている。
雄介が突っ立ったままでいると、父親が尋ねてきた。
「お前、元気か」
「別に元気だけど、なに?」
不愛想に答えると、「それならいい」と黙ってしまった。
それから半年も経たずに父親は逝ってしまった。結局、最後まで『ありがとう』を言わない人だった。
通夜振る舞いは滞りなく終わった。弔問客は皆帰ったが、雄介は線香の灯りを絶やさないよう棺の傍に留まっていた。すると、明日の葬儀の打ち合わせを済ませた母親が、ひっそりとやってきた。
「疲れたでしょ。代わるわ」
「平気だよ。母さんこそ疲れたんじゃない?」
病院から戻って以来ずっと忙しくしていたのだ。疲れていないはずはないだろう。だが、意外にも母親は明るい顔で雄介の隣に座り込んだ。
「ねえ雄介。お父さんがね、わたしにお礼を言ったの」
「え、マジ。いつ?」
雄介が驚くと、母親がクスクスと思い出し笑いを始めた。
父親が亡くなる前の晩、ぐっすり寝ていたかに見えた父親が、ふいに目を覚まして母親の名を呼んだのだそうだ。
「かたじけない」
「かたじけない?」
時代劇かよと、雄介は呆れ声を発した。
「そうなのよ。全く仕様がない人よね」
祭壇上に置かれた父親の遺影を眺めながら、母親は少女のように微笑んだ。
そんな母親も今はもういない。気ままな一人暮らしをずっと楽しんでいたが、昨年、流行り病であっけなく死んでしまった。
雄介が妻と二人で空き家になった実家を片付けていると、一緒に付いてきた小学生の息子がトコトコと近付いて来た。
「お父さん、これ見て。おじいちゃんの机の中にあった」
それは一枚の古ぼけた便箋だった。そこには手書きの文字で、『ありがとうを言ったら、お前の息子が早死にする』と乱暴に書かれていた。
「なによこれ、気味が悪いわ」
横から覗き込んだ妻が嫌悪感を示すと、好奇心旺盛な息子が「これって呪いの手紙だよね」と、不吉なことを弾んだ声で言った。
「お前なあ、そういうこと言うもんじゃないぞ」
笑顔で窘めながらも雄介は考えた。
――だから親父は、あんなにも頑なに『ありがとう』を口にしなかったのか。
そういえばと、雄介は母親から聞いた話を思い出した。
昔、父親は銀行員をしていたという。雄介が小さな頃だったので、バブル経済が崩壊したときに当たる。渉外担当をしていたという父親は、もしかしたら、無理な貸し渋りや貸しはがしといった融資先を敵に回すようなこともしていたのかもしれない。いまとなっては雄介の想像でしかないが。
それにしても、あの厳格な父親が、こんな子供じみた嫌がらせに心を砕いていたのかと思うと、雄介はなんともいえないおかしさと哀れさを感じた。それも息子である自分のために。
「親父、ありがとう」
雄介が殴り書きの文字を眺めながらポツリと呟くと、隣で興味深げにしていた息子が「?」と、顔を上げた。
雄介は息子に便箋を返した。
「なあ、これシュレッダーに掛けておいてくれ。おじいちゃんの供養だ」
(了)