第31回「小説でもどうぞ」佳作 頼むから死んでくれ 桜坂あきら
第31回結果発表
課 題
ありがとう
※応募数253編
頼むから死んでくれ
桜坂あきら
桜坂あきら
〈頼むから死んでくれ〉
休み明け、出社した俺のデスクにメモがあった。コピー用紙を縦に使った、でかい文字。社長の字だ。紗子との旅行の疲れで、ぼんやりと出てきた俺は、どうも事態がのみ込めない。何も思い当たる節はないが、〈クビだ〉と書いた時より怒っているらしいことは、何となく理解した。最悪の朝だ。社長は、例のごとく誰かと大声で電話中だ。もうちょっと静かに話せないものかと思う。課の連中の態度が、どうもよそよそしい。関わり合いにはなりたくないらしい。元カノの里香が、隣の課から心配そうにこちらを見ていた。デスクに座って、じっとメモを見ている俺のところへ、同期の坂本が近寄ってきた。
「昨日の永井さんとのアポ、忘れてただろ? 一日中、電話もつながらないし、お前、何してたんだよ」
「やべっ、そうだ。完全に忘れてた。スマホは壊れたんだ」
旅行中、露天風呂で紗子を撮影中にスマホを水没させたなんてことは言えない。今日にもスマホを買いに行こうと思っていたが、まさかそんなことになっているとは思わなかったのだ。昨日、次の消費者キャンペーンの打ち合わせがあったのだ。大事な詰めの打ち合わせだ。しかも相手は、最重要クライアントのブランドマネージャーだ。やばい。やばすぎる。嫌な汗が背中を流れた。
「それで、どうなった?」
俺はとりあえず、まだそばにいた坂本に尋ねた。
「永井さんから電話があって、社長が飛んでいった。とりあえずお詫びして、打ち合わせは、何とか先延ばしになったらしい。社長が代わりに話を聞こうとしたら、先方が、別の日でいいから、お前と打ち合わせしたいと言ったらしくて、社長は、それにも機嫌悪くしたみたいだ」
配慮のない詳しい説明に感謝する。ますます気が滅入ってきた。そうこうしているうちに、社長の長電話が終わった。ぐずぐずしていると、余計にまずい。しかし、なかなか社長の元へ向かう気にもなれない。何かそれらしい言い訳はないものかと考える。親が死んだのでうっかりしましたは、さすがにまずい。親戚にするか? 叔父? いや、前に別件で殺したような気がする。嘘をついたらメモしておきなさいよって、いつか紗子に言われたことがあった。俺は、腹をくくって、社長のデスクに向かった。
「申し訳ございませんでした」
俺は、膝に頭がつくほど、身体を折った。
「どなた様ですか?」社長が言う。
「本当にすみませんでした。すぐに、先方に連絡してお詫びします」
社長は、デスクの上の新聞に目をやって、俺の顔も見ない。
「ご迷惑をおかけしました」
「お前は、ほんとバカだな。どうしようもないバカ。メモ見ただろ? なあ、頼むから早く死んでくれ」
今のご時世、完全にアウトな言動だが、そんなものは会社によりけり、人によりけりなのだ。堂々と言えたことではないが、この会社では、誰も気にしない。たぶんハラスメントなんて言葉は社長の辞書にはない。時代錯誤も甚だしいが、もう慣れてしまって受け取る方も本気にはしない。入社以来、勝手にフレックス制を導入した俺が、そんなこと言えた義理でもない。
「ともかく、先方に連絡します」
俺は、一礼して、デスクに戻った。俺が電話をすると、永井マネージャーは、まったく気にする風もなく、笑って許してくれた。
「それより、社長の方、大丈夫なの? 居心地悪いんじゃない? 昼から、来ますか?」
俺の社内の居心地まで心配してくださる。しかも、急遽、午後の予定を空けてくださった。俺は、丁重にお詫びとお礼を言い、電話を置いた。午後、そつなく打ち合わせは終わり、かなり大きな企画が通った。概算でも、俺の売り上げノルマの半期分は一発でクリアするほどのものだった。それほどの約束を、よくもうっかりできるものだと、我ながら呆れる思いだった。夕方、会社に戻り、社長に報告した。
「どちら様か存じ上げませんが、ご苦労様でした」しつこい男だ。
その日の夜、かなり遅くなった。俺が会社を出るとき残っていたのは、社長と里香だけだった。俺は地下鉄駅まで行ったところで、財布をデスクの引き出しに忘れたことに気がついた。しかたなく会社に戻った。ドアを開けようとすると、鍵がかかっている。社長も里香もあれからすぐ帰ったのだと思い、鍵を開けた。
ドアを開けた俺の目に、入り口すぐの応接ソファーで社長の膝の上に乗り、忙しく上下する里香の背中が飛び込んできた。驚いたように俺を見る社長と目が合った。きゃっと言う里香の小さな悲鳴。里香は社長に抱きついたまま、白い尻を隠す間もない。俺は何食わぬ顔でデスクに向かい、財布を取るとドアに向かった。
「お邪魔しました」
どちらに言うともなく、そう声をかけてドアを出た。
次の日、昼過ぎに出社した俺のデスクに白い封筒が置いてあった。表に「社長賞」と書いてある。中には二十万円。里香に一つ借りが出来た。久しぶりだし、寿司でもおごろう。俺は封筒を持って、社長のデスクに向かった。そして、新聞を読んでいるふりをしている社長に向かって、声を張って言った。
「ありがとうございました」
社長は、ちらっと俺を見ると、おう、と短く答えた。今日は死んでくれとは言わなかったが、本当は昨日の朝より、死んでもらいたいと思っている。何も言わなくても、それくらいはわかるのだ。俺たちは、もう兄弟なのだから。
(了)