第31回「小説でもどうぞ」佳作 ありがとう百回チャレンジ ヨコタ
第31回結果発表
課 題
ありがとう
※応募数253編
ありがとう百回チャレンジ
ヨコタ
ヨコタ
平日の朝にしては珍しく、近所の公園に誰もいないことに気づいた俺は、公園のベンチに深くもたれながら、ひとり煙草を吸っていた。
「アンタ、若いのに朝っぱらから暇そうやな」
突然の大声に驚き後ろを振り向くと、そこには小太りのオバちゃんがひとり。パーマがかった赤茶色の短髪に、上は猫の顔が大きく描かれたセーター、下はヒョウ柄のズボン。いかにもこの辺の地域にいそうな六十代ぐらいの普通のオバちゃんだった。
「誰やアンタ」
「アタシ? そやなぁ、強いて言えば魔法使いやろか」
「はは、悪いけどな、今俺はオバちゃんの冗談に付き合ってる暇ないんや」
「朝の九時から悠長に煙草吸いながら何言うてんねん。どうせ毎日退屈なんやろ。暇つぶしにアタシとゲームでもせぇへんか」
「ゲーム?」
「今から日が落ちるまでに、百人の人に『ありがとう』って言うて感謝すること。百人達成したらお兄ちゃんの勝ち。題して『ありがとう百回チャレンジ』や。もし達成できんかったら、そやなぁ、アタシがお兄ちゃんの命もらうわ」
「さっきから何言うてんの、オバちゃん」
一刻も早くオバちゃんから逃げようと、ベンチから立ち上がろうとしたそのときだった。突然、すぐ近くでパリーンと陶器が割れるような大きな音がした。気がつくと、目の前には落下した勢いで粉々になった植木鉢の破片がそこらじゅうに散らばっていた。思わず上を見上げる。しかし、そこには雲一つない真っ青な空だけが広がっていた。
「言うたやろ、アタシは魔法使い。さあ始めるで」
こうして俺は、オバちゃんの謎のゲームにまんまと巻き込まれてしまった。
あれから半日間、高校卒業以来一度も会っていない友人や、数年に一度の法事のときにしか顔を合わせない遠い親戚に至るまで、片っ端から連絡をとっていった。
元気? 急に連絡してごめん。覚えてるかわからないけど、高校のとき、たまに消しゴム貸してくれてありがとう。特にテストのときとかマジで助かったわ。機会あったらまた会おう。
こんな唐突すぎる内容のメッセージを何通も送り、ついに残るはあと二人となった。
あと三十分ほどで、日は完全に落ちるだろう。焦る俺とは反対に、オバちゃんが後ろから呑気な声で話しかけてきた。
「さっきから気になってんねんけど」
「何やねん」
「普通こういうときて、まずは両親に言いに行くもんちゃうの」
「オカンに産んでくれてありがとうみたいな?」
「せや」
「絶対いやじゃ!」
喧嘩している場合ではないとわかっていながらも、俺は反論せずにはいられなかった。
「あんな貧乏な家! 酒吞むことしかせえへん両親! 俺は望んでアイツらのもとに産まれたんちゃうんや。せやのに弟が産まれた途端、出来の悪い俺を完全に邪魔者扱いしやがって。オカンは絶対俺を産んだことを後悔してる」
「それはどうやろか」
すると突然、ズボンのポケットに入っていた俺のスマートフォンから、勢いよく着信音が鳴り始めた。スマートフォンの画面上に書かれてあった名前を見た途端、心臓が止まりそうになった。
咄嗟に後ろを振り向くと、オバちゃんがニヤニヤしながらこちらを見ている。他に選択肢はないと悟った俺は、意を決して電話に出た。
「オカン……、何や急に」
「いや、別に用はないんやけど」
「はぁ? 今忙しいねん、切るで」
「ちょっと待ってや。今日アンタの誕生日やし、たまには電話しよう思っただけや」
俺はこのとき初めて、今日が自分の誕生日であることに気づいた。
「お誕生日おめでとう」
「え……あぁ……あ、ありがとう」
まったく予想していなかった展開に、頭が真っ白になった。その後もしばらくの間、なんてこともない話をしていたような気がするが、内容はまったく頭に入ってこなかった。気づけばオカンの声は消えて、ツーツーという無機質な音だけが虚しく鳴っていた。
「さあ、いよいよあと一人やな、お兄ちゃん」
オバちゃんの声にハッと我に返り、空を見上げた。改めて、自分に時間がまったくないことを知る。だが、俺には今どうしても行きたいところがあった。
「ちょっとコンビニ寄ってくるから、ここで待っといて」
コンビニから戻った俺は、買ってきたもののうちの一つをオバちゃんに手渡した。
「このブランドのビール好きやろ。俺は知ってるで」
オバちゃんはすんなり俺から缶ビールを受け取ったものの、表情から驚いた様子が見て取れた。
「オカンから聞いてた。梅バァはオカンのオカンで、俺が三歳のとき死んでもうたらしいんやけど、その梅バァは俺のオカンよりもさらに酒好きやったって」
「あの娘は……アタシの孫にそんなことばっかり教えとったんか」
蓋のあいた缶ビールをぼんやり眺めながら、オバちゃんは大きくため息をついた。
「ありがとうな、梅バァ。俺みたいなクズは一生孤独に生きていくもんなんやと思ってた。けど今日のゲームして、案外俺も人に助けられながら生きているんやって、よぉわかったわ」
オバちゃんの顔に笑顔が戻った。
「これからも、感謝の気持ちを忘れず生きるんやで」
爽やかな風が吹く中、俺たちは小さく乾杯した後、気ままにビールを楽しんだ。今日の太陽が夜空にゆっくり溶けて消えていくところを、二人で静かに眺めながら。
(了)