第31回「小説でもどうぞ」選外佳作 あなたへ 上野餡子
第31回結果発表
課 題
ありがとう
※応募数253編
選外佳作
あなたへ 上野餡子
あなたへ 上野餡子
あなたがこの手紙を読んでいる時、私はもうここにはいないでしょう。
何も言わずにこんなことになってしまい、あなたは怒っているかしら。
でも、毎日忙しく過ごすあなたに、私のことで心を悩ませるようなことをさせたくなくて、どうしても最後まで言い出すことができませんでした。ごめんなさい。
最後の最後にこんな手紙を残すことも、とても悩みました。
でも、たぶん、臆病な私のことだから、私がいなくなるという説明だけじゃなく、あなたへの気持ちひとつ伝えられないまま去ることになるのだろうと思い、結局、こうして残すことに決めました。
本当なら口で伝えるべきことを、こんなふうに後から文字で伝えるなんてズルい、と、きっとあなたは思っているのでしょうね。本当にごめんなさい。
でも、あなたにどうしてもこの気持ちを伝えたくて。これで最後だから、どうか許してください。最後まで読んでくれたら幸いです。
あなたと出会ったのは、もうずいぶん前のことですね。私は大学に通うために、田舎から出てきたばかりの世間知らずな娘でした。
初めての飲み会で緊張してポツンと座っていた私に、あなたがとても気さくに、優しく話しかけてくれたこと、今でもよく覚えています。とても嬉しかった。私と違って、お洒落で賑やかなお酒も飲み慣れたあなたは、とても素敵な大人の男性に見えました。
まさか私があなたと恋人関係になるなんて。今でも信じられないような心地です。
それからもいろんなことがありましたね。あなたはいつも私にいろんなことを教えてくれました。時には厳しい言葉で『そんなことじゃダメだ』と諭してくれました。
一緒に住み始めて『まるで夫婦みたいだね』なんて照れ臭そうに言うあなたをクスッと笑ってしまったこと、今なら話しても許してくれるかしら?
去年の誕生日プレゼントには本当に驚きました。『女の好みなんてわからない』なんて話していたあなたが、あんなに素敵なネックレスをくれるなんて。きっと一生懸命調べて探したんだろうと感じ、胸が熱くなりました。
本当に、ここには書ききれないほどのいろいろな思い出ができました。楽しい思い出も、そうでない思い出もありますが、振り返れば全ていい思い出です。
あなたと出会ってから今まで、本当に夢のような時間でした。もし今悲しんでくれていたとしても、あなたならきっと乗り越えられると信じています。
そして私に遠慮することなく、これからも素敵な人とたくさん恋をしてください。新しい恋人にも、一生懸命プレゼントを探してあげてくださいね。そしていつも私にそうしてくれたように『愛してる』と囁いてあげてください。
長々とごめんなさい。本当にこれで最後です。
今まで本当にありがとう……。
……なんて、書いて終わるわけがないだろ馬鹿野郎。
ピッタリ三枚目の便箋の最後の行に、しおらしい字で「今まで本当にありがとう」と書き終えて、私は思わず体を震わせて笑った。
あんな人に「ありがとう」? 「ありがとう」ですって? 我ながらなんて盛大な嘘だろう。だってそんなこと少しも、これっぽっちも、全く思っていないっていうのに。
出会った当時、あんな男に一時でも恋をしていた自分を殴りたい。田舎娘だからっていつも下に見てバカにして。いつの間にか私の部屋に住み着いたかと思ったら、炊事洗濯掃除何もしない上に一円も払わない。それで「夫婦みたいだね」? 本当笑っちゃったわ。
いつも「忙しい」なんて言って遊び歩いて、挙句女まで作って。その女が気に入らないって返したものを、私の誕生日プレゼントにくれたとわかった時のあの憤りを、私は一生忘れないだろう。
そして別れ話をすれば「愛してる」と抱きしめて誤魔化す。給料のいい職についてる家政婦(私)付き無料住宅を失いたくなくて吐き出される「愛してる」も、そんなことにも気づかず、薄っぺらい愛の言葉に騙される女だとなめられていたことも、一生忘れないだろう。
私は海外赴任のため今夜日本を発つ。次に日本に帰る予定は不明だ。そのことを、あの男には今まで何も説明していない。
あの男はいつものようにヘラヘラとこの家に帰ってくると、この空っぽの部屋と、この美しい嘘の文章に始まり、長年溜めこんだ文句と嫌味に呪詛のスパイスを加えた文章で終わる手紙を見つける。そして自分がなめきっていた女にこっぴどく捨てられたこと、これからの生活基盤を立て直す必要があることを知る。それが私のささやかな復讐だ。
さあ、ここからなんて書き出そうかしら……。
本当の気持ちを書くなら、「ところで馬鹿野郎」? 「さて、くそったれ」? 何がいいだろう。今までの不満を全部ぶちまけた後でなら、たっぷりの嫌味を込めて「ありがとう」と、太マジックで大きな文字で書いて終われる気がする。
空っぽの部屋の中、私はポツンと残った男の私物を見つめてまたニヤリと笑い、新しい便箋に続きを書き始めた。
(了)