第32回「小説でもどうぞ」最優秀賞 Y字路 深見将
第32回結果発表
課題
選択
※応募数306編
Y字路
深見将
深見将
私は、しばらくY字路の前に立ち尽くしていた。分岐点の敷地内には、鋭角に沿って器用に家が建っている。黒いトタン板で覆われた壁面には、栄養ドリンクや胃腸薬など昭和レトロな看板がいくつか貼り付いており、長年さらされた影響でモデルの顔はほとんど判別がつかない。分かれ道の右側は平屋建ての民家が連なっている。道は緩やかに曲がっているので、ずっと先はここからでは見えない。分かれ道の左側は民家がまばらで、向こうの方にぼんやりと見える森に続いているようだ。
Y字路は、現実のものではない。両手をいっぱいに広げたくらい大きなキャンバスに描かれた絵画だ。平日、閉館間近に訪れた美術館。仕事帰りに寄った横尾忠則の展覧会だ。私は横尾さんの作品を実際に目の前で観るのは初めてだった。画集を観るだけでは伝わらない、絵画が迫ってくるような臨場感に圧倒されていた。
ふと、背中に人の気配を感じた。
「これ、いいでしょ」と、ささやくような声がする。振り向くと、そこにいたのは横尾さん本人だった。くたびれた黒のジャケットに、ボーダーのシャツ、眠そうな表情。私は美術館という場所にいる手前、憧れの芸術家に会えた驚きと喜びを必死に抑えながら、小さく「はい」と返事をした。
横尾さんは私の隣に並んで、自作を眺めた。考え込んでいるような、何にも考えていないような不可解な横顔。話しかけるのは失礼だと思い、私もその場で鑑賞を続けた。大好きな作品とその作者と一緒にいる。私は静かに興奮していた。
私は小さい頃から絵を描くことが好きで、中学校では美術部に所属していた。特に才能があったわけではないので、芸術家を目指すこともなく、絵への興味は次第に薄れていった。今、何十年も芸術と格闘し続けた男を目の前にして、絵をさっぱり描かなくなった自分の平凡さを少しつまらなく感じた。
「どちらがいいですか?」と横尾さん。
質問の意味がよくわからなかった。両隣に展示されている作品と比べて、どれが好みかということを聞いているのだろうか。
「どれも好きですが、特にこれが好きです」
私は正面の作品を指さした。
横尾さんは、やや呆れたような表情でY字路を見ながら、
「いや、そうではなく、進むなら右か左どちらの道がいいですか、とぼくは聞いています」
私は、自分の機知のなさを恥ずかしく思った。顔が熱くなった。
「あ、それなら右がいいです」
「どうしてですか?」
理由などない。ただなんとなく、だ。でも、何か気の利いた理由を言いたくなる。
「民家が並んでいるので、そこで暮らす人たちとお話もできますし、変わったお店とかもありそうですので」
横尾さんは全くの無表情で「普通ですね」と言った。なんだか少し腹が立った。
「それでは、あなたは右へどうぞ。ぼくは左に行きますね。遠くに見える森の奥には、ターザンがいるという噂を聞いたので探してみたい」
横尾さんは絵筆がはみ出たデニム地のバッグを肩にかけ、「じゃあ」と左の道を進んでいった。本当は横尾さんについて行きたかったのだけど、仕方なく選んだ右の道を歩き始めた。
普段、コンクリート造の建築物ばかり見ているので、平屋か二階建ての民家は新鮮に感じた。それぞれの家には小さな庭があって、手入れされた草花が行儀良く生えていたり、自転車やスーパーカブが置いてあったりした。いくつかの民家を通り過ぎると、人の姿があった。小豆色のジャージを着たおじいさんが、庭で柴犬らしき犬の毛を熱心に引き抜いている。犬は舌を垂らしながら、されるがままといった感じで横たわっている。生え替わりの時期の犬の抜け毛量はすさまじい。綿のようなかたまりが、庭に散らばっている。私はおじいさんに挨拶をした。
「こんにちは。この先を進むと、何かありますかね?」
「ああ」おじいさんは一瞬だけ私を見て、すぐに視線を犬に戻した。「ここは田舎なんで、何にもないわな。この先なんてもっと何にもないわな」
あまり話したくはなさそうだったので、ひと言お礼を言って、そそくさとその場を後にした。その先は、緩やかな坂道が続いた。自転車の荷台に小松菜を積んだ、おばさんとすれ違った。
坂を上ったところは、犬のおじいさんの言うとおり、本当に何もなかった。民家が一軒もないどころか、道も森も、その先の風景も全く何にもないのだ。ただ真っ白な空間がある。あまりに白いので、それがどれだけ広いのか、どこまで続いているのかもわからない。道と白の境目のあたりに、ぽつんとデニム地バッグが置いてある。中を覗くと、油絵やアクリル用の画材がぎっしりと詰まっていた。どれも綺麗で一度も使われていないようだった。
私は真っ白な空間に向かって、むふんと腕組みをする。絵を描くなんて、何年ぶりだろう。……うん、そうだな。Y字路を描いてみようか、私なりに。右の道は、賑やかな通りにしよう。民家やお店もたくさん描いて、畑も作ろう。子どもたちの遊べる野原もあったほうがいい。
左は森へと続く道を描こう。描き上げたら、今度は左へ進んでみようか。運が良ければ、ターザンと遊ぶ横尾さんに会えるかもしれないから。