第32回「小説でもどうぞ」佳作 洗濯物をたたむ とがわ
第32回結果発表
課 題
選択
※応募数306編
洗濯物をたたむ
とがわ
とがわ
「洗濯物、たたまないの?」
取り込んだ洗濯物を床に山盛りに積んでから僕があまりに動かないものだから、心配した妻の燿子が声をかけて寄ってきた。妻はこれから旧友に会いにいくそうで、ラフだけれどかっこよさもかわいさも兼ね備えた黒のワンピースを身にまとっていた。
「あぁ、ごめん」
燿子のその妖艶な姿にすこしばかり釘付けになっていた僕は、はっとして洗濯物に手を伸ばした。手に取れたのは昨日はいていた自分の下着だった。若干よれていてしゃんとしてないところが僕にそっくりだった。
「どうしたの?」
燿子はワンピースに皺をつくりながら僕の横に正座した。
「いや、なんでもないんだ」
なんでもないはずがないのに淀みなく嘘が流れ出す。まるで燿子の嘘に乗っかっていくように。
「熱でもあるの?」
そういって燿子の白く細い、何の指輪もついていない左手のひらが僕の額に触れる。香水をつけているのか、手首から華やかな優しい香りが漂った。
「なさそうだね」
「香水、変えたの?」
「……気づいた?」
燿子は嬉しそうにはにかんだ。柔らかく笑う燿子の顔を近くでみたのはずいぶん久しぶりに思った。
「すごくいい匂い。燿子って感じだ」
燿子はただ笑うだけだった。しばらくお互い黙って、洗濯物がなくなった窓の外の景色を眺めた。よく晴れた土曜日の昼下がり。洗濯物から香る太陽の暖かな匂いと燿子の化粧品の匂いと香水の花のような香りが、複雑に混ざり合って僕を縛る。そっと窓の隙間から小鳥のさえずりが聞こえてきてはまた昔のことを思い出す。
燿子は実家で文鳥を飼っていた。愛情を注いで可愛がっていた文鳥は二年前に死んでしまい、燿子は泣いた。泣いて泣いて泣き腫らした燿子にもっと寄り添ってあげていたら、と、そんな感じに取りとめない出来事はあらゆる方向から想起を促し、そのたびに僕は後悔を募らせていた。
燿子はもしかしたら僕が気づいていることに気づいているのかもしれなかった。妙な緊張感が僕らに張り巡らされていて、動けない。燿子は浅く息をしている。耳につけたピアスが太陽光に照らされて煌めいている。
「優くん、ボタン一個外れてるよ」
燿子が声を放った。思ったよりずっとあっさりした声で僕も不思議と自然体に戻って自分の服のボタンに目をやる。
「あ。本当だ」
そういってボタンをつけようとして、ふと動きをとめた。ボタンは確かに留まっていなかったけど、外れたわけではなかった。
どうしてこうなってしまったんだろう。どうしたら燿子はこれからもずっと僕のそばにいてくれるんだろう。今ここで、ボタンを直してほしいと言えば変わるんだろうか。どれを選択すれば求める未来に繋がっているのかわからない。あるいは今動作を止めていることだってそんな未来から離れた道かもしれないというのに、わからなかった。
「優くん、わたしそろそろ行くね」
いよいよ燿子は僕を置いていく。出逢ったところからやり直せたら、変わる気がした。でも毎日のすべてが選択の日々だと、聞く音楽も口にするものも朝起きることだって、そんなあらゆるものがすべて選択なのだとすれば僕は途方もない繰り返しをしなければとうてい求める未来には辿りつけないと思えた。
いかないでほしい、と言えたらよかった。言っていいかわからない。この期に及んでもまだ、幾通りもある選択のたったひとつを探し出せないでいる。悩んでるふりをしてただ目で懇願するだけの狡い選択をしているだけにすぎないのかもしれない。燿子は僕の横を通り過ぎていく。僕の服はボタンが外れているのではなく、掛け違っていた。そのことに燿子自身も気づいていなかったのなら、やり直せるのではないかとまだ期待してしまう。
燿子の心は浮ついていて簡単に僕に嘘をついて好意を別の男に撒いていた。僕が不甲斐ないからだ。もしかしたら燿子は僕にとめてもらいたいのかもしれない。気をひかせたくてちょっと裏切ってみたのかもしれない。でも僕が無言を貫いたせいで燿子は迷子になってしまったんじゃないか。……都合のいい脳みそだと思った。
「燿子……!」
僕の声はもう誰もいない部屋にこだました。燿子はもう行ってしまった。洗濯物だけが無造作に積みあがっている。ただ、一緒に洗濯物をたたもうと言えたら。そう思ってからそんな日常に恋焦がれていたことに気づいて、もういない燿子を想って、泣いた。
(了)