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第32回「小説でもどうぞ」選外佳作 心づけ 若林明良

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小説でもどうぞ
第32回結果発表
課 題

選択

※応募数306編
選外佳作 

心づけ 
若林明良

 下村は観光案内所の玄関に立ち、封筒に目を落とした。
「この寒い中、広い境内を二時間もご丁寧に案内していただいて、何もしないわけには参りません。どうかどうか、受け取って下さいまし」
 齢ひと回り上の女性客が差し出した封筒の中身は、おそらく万札だ。
 六月、観光案内ボランティアガイドの会に入り、三か月の研修を終えた。今は十一月半ば。下村が国宝の寺を案内するのは彼女で十八組目だった。
「お客様の中には御礼として菓子や心づけを渡される方がいらっしゃいます。ですが、当会は町が運営する完全なボランティアです。そういったものは決して受け取らないで下さい」
 研修中、事務員の松下が繰り返し述べていた。違反者は退会と会員規約にも記されている。
 幾度もの押し問答の末の選択だった。断るとかえって失礼かもしれない。ついに受け取ってしまった。女性が去ってから開けると、一万円札が一枚入っていた。
 三月、定年退職した。しばらくぶらぶらしていたが、ボランティアガイドをしようかと妻に相談すると、
「ボランティアて、ええ身分やな、私は洋裁の内職しとんのに。暇ならシルバー人材センターにでも行って小金を稼いでくれた方がマシや」
 と、さんざん嫌味を言われた。なんと金に汚い、心の卑しい女か。下村は妻の悪想念を拭い去るべく、すぐさまガイドの会に入会したのだった。
 研修では寺の歴史や仏像の美術的価値と共に仏教を学ぶ。仏の教えは集約すると執着を手放すことにある。そう、世の全ての争いは執着が元になっている。若い頃から仏教に興味を持ち、独学もしてきた下村は、研修によりさらに心が磨かれる思いがしたのだった。
 それなのに、なぜ金を受け取ったのか。下村は自問する。それは、妻のみならず自分も金への執着心を有している証拠ではなかろうか。白状すると、僅かな退職金、つましい年金暮らしで好きに物が買えず、この一万円があれば、との思いがちらと胸を掠めたのだ。
 ああ! 欲にまみれたわが心。自分は仏様に仕える活動をする資格はない。
「下村はん。寒いのに中入らんといつまでも突っ立って何してまんねん」
 肩を叩かれた。ガイドの辰己である。共に六十前半だが、痩身の下村とは対照的にでっぷり太った禿げ頭の、いかにも人懐っこそうな男だ。芸人も顔負けの軽妙な話芸を持ち、仏教の複雑な話を面白く説明する辰己には、ぜひまたお願いしたいと観光客のリピーターが絶えない。世話好きらしく、何でも相談してやと新人にしょっちゅう声をかけている。
 そうだ。自分の卑しい心が転写された金を持ち帰ってはならない。飲んで消費してしまおう。下村は辰己を飲みに誘い、少し歩いた居酒屋に入った。一万円があるので普段より高めの酒を頼んだ。
「えへえへ、嬉しいなあ。わしは赤んぼのときから乳でなしに酒飲んで育ってきましてん。肝臓がいてもうて、おかあちゃんから止められてますんで家ではあんまし飲めへんのや」
「えっ、誘ってすみません」
「いやいや、かましまへん。こんないい酒を飲ましてもろうたのは初めてや」
 完全に下村の懐をあてにしているらしい。下村は辰己に、客から心づけを頂戴した旨を告白した。
「あれだけ強く言われてましたのに、受け取ってしまいました……私は退会せんといけませんやろか」
 辰己はその沈痛な面持ちをじいっと見詰めていたが、
「そんなことで悩んでまんのか。わし、ここだけの話やけど、百万は稼いでまっせ。菓子も三十万分くらいはもろうたんちゃうかなあ」
「ええっ」
 ガイドを始めて五年になる。わしはこの通り大人気やから、心づけをぎょうさんもらうのや。そら、最初はわしかてあかん思うて断ったで。仏はんが見ていなさるからな。せやけどお客さんが受けとらへんと許してくれんのや。
 それで松下はんに相談したら、
「先方がどうしても引かない場合は受け取って下さい。私どもに提出されずとも結構です。ですが基本はお断りして下さいね。それと、他のガイドさんには内密にお願いします」
 やて。なんか拍子抜けしたわ。町の職員やけど、松下はんはなかなか話の通じる娘やで。
 わしもしがない年金暮らしやし、このところの物価高。仏教の本もろくに買えん。最近では感覚が麻痺してもうて、心づけをいったん儀礼的に断ったら次はもう受け取ってしまうのや。それが積もり積もって百万。一年では二十万の稼ぎやな。これを倍にするのが今年の目標や。ひゃっはっはっは。
 まあ仏はんも、この貧乏人のじじいが二時間も他人のために汗かいとるのやから、こんくらい目を瞑ってくれなはるやろ。下村はんもありがたく受け取っとけばええ。仏はんの御利益でっせ。
 ああ、この話は下村はんだけに言うのやから絶対に誰にもせんといてや。わしがブッチギリの百万で、二番目は安井はんの四十万や。こんなに稼いでると知ったらさすがに松下はんに大目玉食うよってにな。
 長話を終えた辰己は上気した頬を光らせ、垂れ目をいやらしく垂れて笑った。下村はすべてがアホらしくなった。今日の勘定は奢りのつもりだったが、もちろん割り勘にした。
(了)