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第33回「小説でもどうぞ」佳作 傷のある顔 瀬島純樹

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第33回結果発表
課 題

不適切

※応募数275編
傷のある顔 
瀬島純樹

 あの男が、ゆっくりと正面から入ってきたときには、それはもう身の毛がよだつくらい恐怖を感じました。
 大柄でやせ型、傷のある顔の表情、衣装の申し分のないバランス、特別な模様と色彩の表す伝統的な意味、その見た目は完璧と言っていいほど、つまり、その要素を備えていました。わたしの拙い知識からすれば、いわゆるその世界の完成品でした。あざ笑いながら威嚇してくる態度も身体のかし ぎ方も、言いようがないほど、仕上がっていました。それに口にする言葉は、すべてここに記録することが、はばかられる暴言ばかりで、声はその乱暴な内容を表現するのに、もっとも効果的な有無を言わせない圧力と、おぞましい渋みを含んでいました。
 男の一方的な、わけのわからない苦情というのか、言いがかりを、不運にも最初に聞く羽目になったわたしからすれば、第一印象の観察から、この男は不適切な注意人物として処理しなければと思いました。しかし、今、この空間には、頼れるはずの上司も見あたらなければ、先輩もいません。あり得ないことでしたが、自分以外には誰もいなかったのです。こういう場合、どう対応すべきか、防犯の講習は受けたはずです。いえ、受けましたが、聞いたかもしれない適切な対処や行動の、なすべきことなど、なにも思い浮かびません。頭の中はきれいさっぱり真っ白です。と言って、いきなり防犯ベルを押す勇気はありませんでした。ただただ、要注意人物の男を目の前にして、いつのまにか席から立ち上がって、身じろぎもせず棒立ちのまま、固まっていました。
 心の中では、奴らのような社会にとって不適切な存在が、次々ととんでもない不適切な行動を巻き起こして、結局は、ありえない不適切な結果をまねくのだ。奴らは地上から抹殺されなければならないと、怒りを込めてしきりに思い詰めていました。
 でも、なんとも情けないことに、出来ることと言えば、急用で席を外した先輩が、とにかく一秒でも早く戻ってくることを祈るしかありませんでした。
 男がさらに大きな声を張りあげ、ついに目の前のカウンターを乗り越えて侵入してきました。そして、わたしの顔に、太い眉毛を近づけてきたとき、身体はとっさに反応したのですが、そのままあたりの音が聞こえなくなり、気が遠くなってしまいました。
 気が付いたときには、控え室の簡易ベッドの上で横になっていました。心配そうな先輩の顔があって、ならぶように眉間にしわを寄せた上司の顔がありました。
「あなた、大丈夫」
「はい、大丈夫です」と先輩に返事をすると、
「君のおかげで、防犯訓練が台なしだよ」と上司の声が聞こえました。
「ぼうはん、くんれん」
「そうなの、あれは、抜き打ちの防犯のための訓練だったのよ。講習で、習ったでしょ、ひとりで対処しようと思わずに、防犯ベルを押すこと」
 まざまざと、わたしはさっきの場面を思い出しました。同時に今日は新人として勤務初日だったことも。今朝、家を出るときの両親の喜ぶ顔が見送ってくれたことも。
 そう、そうです。頭がはっきりしてくると、上司の言葉の意味が分かってきました。先輩が、不自然なくらい取ってつけたように、急用を思い出して、慌てて出かけたこと。それに上司の様子も、朝からどことなくそわそわして落ち着きがなかったこと。てっきり新人を迎えて戸惑っているくらいにしか思っていませんでした。
 あの時、あそこにいたのは、わたしだけです。あらかじめ相談したように、誰もが席を外していた。そこにあの男が現れたのです。あれは新人の肝試しのために、仕込まれたまさかの防犯訓練だったとは。
 そうなら、みなさんの期待を裏切って、大失態をしでかしたのか。それとも、逆に期待通り、ものの見事に醜態を披露したのか。
「申し訳ありません」
 わたしは至らぬ新人として、上司と先輩に謝りました。ふと見ると、となりに、もうひとつ簡易ベッドがあり、人がうずくまるように横になっていました。
「この人、どうしたんですか?」とおもわず訊くと、
「なんだ、覚えていないのか。君は、同僚の股間をおもいっきり蹴り上げたのだぞ。こともあろうに、女性の君が、男性の……まったく」と上司がさらに言いかけるのを止めるように、先輩が咳払いをしながら、
「防犯訓練の犯人役の男の人は、こだわりすぎて真に迫っていたけど、本物じゃないからね。あなたと同じ警官よ」とささやきました。
「こんな不始末、どう本部に報告すればいいんだ」と上司は頭を抱えて怒鳴りました。
 先輩はわたしのベッドそばで、下を向いたまま、情けなさそうにうなだれていました。
 わたしは考えに考えた末に、自分でも信じられないくらいの勇気と英断を持って上司に提案しました。
「幸い、この交番の中の、身内だけのことですから、今日のことは、なかったことにするのは、どうでしょうか」
 となりのベッドで、変装したままの同僚が、泣き声で、うなったような気がしました。
(了)