トシオは今、自分の口から酸素マスクが外されるのを見下ろしている。
　あ、これあれだ、幽体なんとかだ。
　わが人生の終幕に際し、ずいぶん軽薄な感想しか浮かばない。看護師たちの手によってトシオの体から点滴の針や電極が手際よく外されていく。機器類も撤収されて、病室には長女と孫のリンタロウが残された。
　長女がおもむろにカバンからスマホを取り出し、親戚やなんかに連絡を入れ始めた。
　妻が亡くなったときは泣き崩れた娘が、今回はずいぶん落ち着いている。男親は寂しいものだと思わず苦笑した。すると、孫のリンタロウが長女の腕を引っ張って言った。
「ママ、いまおじいちゃんが笑ったよ」
　長女はスマホの画面から目を離すことなく「あ、そう」などと適当に返した。
　トシオは、魂の感情がまだ少し肉体に伝わるのだろうかと首を捻った。そこへけたたましい靴音が聞こえてきた。
　カコッ、カコッ、カコッ、カコッ、
　ダン！　
　激しい物音をたてて駆け込んできたのは次女である。思わずトシオは「ここは病院だぞ」と言いかけ、自分の声が空気を少しも振動させないことに驚き、ようやく自分の死を実感したのだった。
「尾田さん、尾田トシオさん」
　背後から呼ばれ振り返ると、背広姿の男が立っていた。いや、浮かんでいた。左腕に〈スタッフ〉と書かれた腕章を巻き、右手にはタブレットを持っている。
「ご案内します」
　後について病室を出ると、そこはもう区役所のロビーのような場所だった。
「尾田さんは極楽浄土への往生がご希望ですね。あちらの四番カウンターへお進み下さい」
「はい」と進みかけてトシオはふと、終活で二人の娘に向けて書いた手紙のことを思い出した。そのうち渡すつもりで古い本に挟んでおいたあの手紙。
「すいません、一旦病室に戻りたいんですが。本に挟んである手紙のことを伝えたい。孫のリンタロウなら念が通じると思うんです。あの子は勘がいい」
「少々お待ちください」
　男はタブレットを操作しながら言った。
「本も手紙も、もう焼かれてますね、あなたと一緒に」
「へ？」
「娑婆（しゃば）とこちらでは時の進み方が違いますので。ほら」
　男は動画を再生し、困惑するトシオにタブレットを見せた。
『このご本、おじいちゃんが大事だって言ってたから入れてあげよう』
　孫のリンタロウが棺にあの本を入れる様子が映し出されている。早送りで火葬場に到着するところまで再生すると、男は画像を停止してこう言った。
「私の経験から言いますと、終活で書いた手紙がもとで、遺族間の紛争を招いたという例は数知れません。法的に有効な文書でないものは拗（こじ）れるもとです。うちの家族は大丈夫だ、なんて過信が一番危ない。不思議なもので、中途半端な額の遺産ほど揉めます」
「ちゅ、中途半端……」
　確かに、トシオはあの手紙に、できれば遺産は長女と次女に三対一の割合で分けてほしい旨をしたためていた。専業主婦の長女は夫の薄給を嘆いていたし、リンタロウの養育費も心配だ。次女は独身で長年外資系の製薬会社に勤めており、経済的心配はなさそうだから、次女も納得してくれるはずだと……。たいした額でもないので遺言書は重すぎると思い、手紙にしたのだが、揉める要素が満載ではないか。トシオは愕然とした。本当の願いはいつまでも姉妹仲良く、だけなのだ。
　鐘の音が聞こえてきた。
「焼き上がった副葬品が届いた合図です。行きましょう」
　男に促され、受取口へ向かった。
　すでに受取希望者の列ができていた。やがてトシオの番がきて、小さな箱を手渡された。例の本と、〈松竹庵〉のぼた餅が入っている。これはトシオの好物である。副葬品は〝行くべき場所〟へは持っていけないので、ここで見るなり食べるなりしなければならないと説明された。
　ベンチに腰掛け、トシオはまずぼた餅を頬張った。
「ん、うまい。やっぱりここのぼた餅は最高だ！」
　ふと視線を感じて顔を上げると、白髪の女性と目が合った。
「おひとつ、どうです」
「あら、よろしいの？」
　彼女は自分の副葬品の中から入れ歯を取り出しカポリと嵌めると、大きな口を開けてぼた餅にかぶりついた。食べ終えると、口の両端についた餡を指で拭き取り、その指先もペロッとなめ、笑顔を見せた。
「のどに詰まるからって、ホームではこういうのは食べさせてくれないでしょ。ああ、ほんと久しぶり。ごちそうさまでした」
　女性は係員に付き添われて去っていった。
　自分もそろそろ行かなければならないようだ。トシオは、本の間から封筒を取り出し、二つに破いた。重ねてまた破り、もっと破り、細かく細かく、粉々に千切って、えい！　とばらまいた。読まれないで良かった、とつぶやきながら。
　ちょうどそのとき、娑婆ではトシオの満中陰の法要と納骨を終えたところだった。
　そこへ空から白い細かなものがパラパラと降ってきた。
「あら、雪」
「冷えるはずね」
　姉妹は揃って肩をすぼめた。
　リンタロウが犬みたいに跳ねながら「おじいちゃんからのお手紙だ」と言い、二人を和ませた。
（了）