第34回「小説でもどうぞ」佳作 嘘ばかり 有原野分
第34回結果発表
課 題
最後
※応募数233編
嘘ばかり
有原野分
有原野分
「それでは、お一人ずつご焼香をお願いします」
ふう、やっと焼香か。棺桶に入ってから、いったいどのぐらいの時間が経ったのだろうか。ここは、思ったよりも暑い。そして密閉されているのか、身動きはもちろん、息苦しさも想像以上だった。中は真っ暗だし、和尚の唱える念仏が単調で、眠たくて眠たくて仕方がない。いや、正直にいうと俺はさっきまで眠っていた。それも夢なんて呑気に見ながら。
いつものように上司に怒られる夢。なぜ死ぬ間際になってまでこんな夢を見なくてはならないのか。わたしは、そんな夢のない自分にげんなりした。
棺桶の隙間から、焼香の独特な香りが漂ってくる。まるで燻製にでもされているかのようだ。ああ、早く終わってくれ。いったい、なぜこんなことになったんだっけ。
「もう、会社を辞めたい」
そんなことを妻に話したのがきっかけだった。まがりなりにも結婚して二十年。俺は家庭を顧みず、がむしゃらに働いてきた。確かにいい父親ではなかったかもしれない。ときには妻を怒鳴りつけて泣かしたこともあった。浮気がバレて、頭を下げたこともあった。
しかし、二人の子供がもうすぐ成人を迎える。なんだかんだの俺は頑張ってきたと思う。そんな矢先に、会社で理不尽な人事異動があり、俺はパワハラで有名な上司の元に飛ばされてしまった。それからだった。毎日のように怒鳴られ、なんだかやる気や気力といったものが枯れていったのは。
「だったら、少しの間休んだらどうかしら。ローンだってまだたくさん残ってるんだから、少しの間ゆっくりして、その後のことはそれから考えましょう」
しかし、そこは現実。いくら時代が令和になろうと、ブラックな会社はゴロゴロと残っている。結果、俺は休みを貰えなかった。上司に鬱だったら考えてやると言われた。病院に行ったら軽い鬱だと診断された。その診断書を会社に持っていったら、会議室に呼び出された。
「鬱病者なんて出したら、私の評価がどうなるか分かるだろ? 辞めたいなら、勝手に辞めてくれ」
「でも、私は長年この会社で勤めてきたのです。それなのに、ひどすぎませんか? 正直、死にたいほど辛いのです」
「なら、勝手に死んだらいいじゃないか。君が死のうが、会社には一切関係ないんだから」
その言葉に、俺は怒りが湧き上がってきた。復讐してやる。そう心に決めたのだった。
そのことを妻に伝えたら、「それなら、いい方法があるわ」と目を輝かせて言った。
そして、今、俺は棺桶の中にいる。
まさか、この時代に偽装死をするとは思わなかった。妻曰く、表には出ないがその手の専門的な会社が実際にあるらしく、裏で町の小さな医者と葬儀屋とが手を組んで、どうしても死ぬしかない人間をあくまでも救済という体で死なせているそうだ。そして死んだ本人はもちろん、残された遺族には保険金や慰謝料、遺族年金などが支給されて三方よしになるそうだ。
「でも、それって詐欺なんじゃ」
「あら、別に構わないじゃない。あなたの上司だって嘘つきなんだし、生きている以上、みんな詐欺師みたいなものなんだから」
偽装死の条件はこうだ。とにかく、一度死んだら二度と知人と会ってはいけない。家からもなるべく出ない。もし堂々と第二の人生をやり直したいのなら、整形をすること。他にも絶対に医者や葬儀屋の名前を出さないこと、バレたら自己責任で解決することなどの細かい条件がたくさんあったが、俺は会社に復讐したいがために契約書に判を押したのだった。
そのおかげで会社は自殺者を出したということになり、連日のワイドショーを賑わせることになった。俺は心の中で「ざまあみろ」と罵った。本当は葬儀に来た上司に直接言いたかったが、それはもうできなかった。そもそも、棺桶の中にいたら、顔を見ることすらできやしない。
葬儀は順調に進んでいく。俺はさっさと終わらないかと思いながら、明日からの悠々自適な生活に胸をときめかせていた。俺はどちらかというとインドアだし、近所付き合いも友達もほとんどいない。だから別に引き籠もっていても平気だし、会社からがっぽりと慰謝料が取れたらそのお金で整形をして、どこか誰も自分たちを知らない土地に引っ越しをする約束を妻としていた。
そんなことをぼんやりと考えていると、なんだか再び眠くなってきた。まるで睡眠薬を飲んだときのときのような感覚だった。俺は早く新鮮な空気が吸いたかった。そしていつの間にか俺は、夢すら見ないほどの深い眠りに落ちていた。
頭上で声がする。目を開けると、子供たちが泣いている声が聞こえてきた。今回の偽装死に当たり、子供から漏れたら大変だということだったので、子供たちにはなにも伝えていなかった。悪いことをしたと思っているが、後でなんとでも言えるはずだ。生きていると知ったら、きっと喜んでくれるに違いないだろう。それにしても、まだ葬式は終わらないのだろうか。
その瞬間、棺桶の蓋が開いた。そこには妻の顔があった。その顔は、泣いているのか笑っているのか、よく分からない不気味な顔だった。そして、口元が動いた。なにか言っている。なにかをつぶやいている。しかし、俺にはそれが聞き取れなかったし、分からなかった。身体を動かそうとしても、なぜか動かない。声も出ない。なんだか焦ってくる。そして、蓋が閉まった。棺桶が動き出す。なんだか嫌な予感がする。空気が熱くなっていくような気がする――。
そうして俺は、いったいどこからが嘘で、どこからが本当だったのか、自分の人生を振り返りながら、自分自身に最後の嘘をついて、自分を騙すしかなかった。
(了)