第35回「小説でもどうぞ」佳作 冬のご馳走 篠原ちか子
第35回結果発表
課 題
名人
※応募数234編
冬のご馳走
篠原ちか子
篠原ちか子
都会にはめずらしく、五センチほど雪が積もった。
バスを待ちながら、路上に点々とつづく足跡や自転車のタイヤが描いた曲線を眺めて、わたしはふと祖父のことを思い出していた。
山里に住む祖父は猟師で、ワナ猟の名人と呼ばれていた。テンやイタチ、イノシシまで自作のワナで捕まえる。遊びに行くと、せがんで猟に連れていってもらった。
「ケモノ道ってのがあってな、そこに仕掛けるんさ」
雪の上に印された四つ足の小さな跡をたどっていくと、その先に針金で作ったワナがあって、肥った野ウサギがかかっていた。
ワナはガッチリと後ろ足に食いこんで、はずす前にウサギはもう死んでいた。血は流れていたものの、目を閉じて眠ったような横顔をしていた。まだつややかに光る毛皮をなでながら、祖父は哀れみをこめて言った。
「かわいそうだが、こいつらは悪さをするでな。たいせつな畑を荒らしてしまう」
やがてバスがシャーベット状の雪をかき分けてやって来て、わたしは我にかえり、大荷物をかかえて乗りこんだ。
さっきまで空港で北海道行きの飛行機を待っていた。雪は小降りになったものの、上空に居座った寒気と悪天候のため結局飛行機は飛ばなかった。会社に指示を仰ぐと、二泊三日の出張は中止となり、そのまま直帰していいとのことだった。
わたしは空港に隣接した高級スーパーに寄り道をし、食品売り場で夫の直人の好物のトリ鍋セットを見つけて買いこんだ。値段はちょっと張ったものの、家に帰れる嬉しさで、思い切って奮発してしまった。
最近、お互い仕事が忙しくてすれちがいばかりだったから、直人といっしょに食卓を囲めると思っただけで心がはずんだ。しばらく出番がなかった卓上コンロを棚から引っ張り出そう、お酒も飲みながら鍋をつつき合おう……とあれこれ考える。
直人もこのごろは疲れてどことなく顔色も悪く、心なしか上の空だった。帰宅も深夜を回ることが多く、夕食も別々に摂るし、外食やコンビニ弁当ばかりだったから栄養もかたよっているだろう。奥さんのわたしとしては健康が心配でもあったし、申しわけなくもあった。
帰ったら部屋には赤々とストーブが燃え、テーブルの土鍋から熱い湯気が吹き上がっていたら、きっと直人も元気が出るだろう。鍋なんて最高の家庭の味ではないか。家族で食べるからこそ美味しく感じる、ほんのささやかな幸せだけれど……。
膝に抱いた鍋セットの包みが信号で止まるたびカタコトと楽しみな音をたてた。そういえば具の白菜やネギに飾られたトリ肉はちょっとウサギ肉に似ていた、黄色い脂肪がのってふっくらしていた、と思う。祖父が捕った獲物を祖母は怖がって調理しなかったから、祖父とわたしで頭や足、内臓を除き、皮を剥ぎ、血を抜き、骨やスジをはずして解体したのだ。どんなケモノの肉でもやっぱり鍋にすることが多かった。切り身を煮え立った鍋に放りこむと、しばらくして美味しそうなにおいが立ち上ってきた。
バス停に着いて降り、アパートへ向かって歩き出した。足もとは悪くても防水シューズを履いてきたから歩くのも楽だった。自動車にすれ違い様ハネを上げられてキャアキャア騒ぐ女子中学生たちにほほえみが浮かぶ。
アパートの階段に足をかけると、同じ向きで上っていく先の細いヒール靴の足跡に気づいた。こんなきゃしゃな靴で滑らないだろうか、ころんで尻もちをつき、足をくじいたり、打ち身をつくったりしないだろうか。びしょ濡れになったり、ケガをするにきまっている、たかが五センチの雪でもバカにしない方が身のためよ……。
わたしの部屋までまっすぐにつづく足跡を踏みしめて、傘を閉じ、荷物をドアノブに引っかけたら、ようやく両手が自由になった。バッグから携帯電話を取りだして直人にメールする。
「早く帰宅できそうです」
連絡が遅くなってしまったが、これを見たらきっと直人も飛んで帰ってきてくれるにちがいない。
白い息を吐いて深呼吸すると、わたしは鍵を回して勢いよくドアを引いた。
すばやく玄関に入ると、そこに脱がれたヒール靴を蹴散らしてリビングに走った。暖房もテレビもついていて、ずうずうしくあるじ然とくつろいでいた若い女がギョッとしてふり向いた。悲鳴を上げるまもなく襲いかかり、思い切り胸を突き飛ばし、顔を殴りつけ、膝の下に組み敷いてさっき鍋セットといっしょに買った包丁をポケットから取り出す。
「エサをまいておいたらまんまと引っかかったわね。かわいそうだけど、人の夫を盗むなんて悪さをするからよ」
床に転がった女の携帯が警報のように鳴っている。ぐったりと気絶した女を放り出して操作すると、直人からの送信だった。
「早く逃げて……」
これが証拠でなくて何だろう?
もう遅いわよ、とわたしはせせら笑った。
(了)