第35回「小説でもどうぞ」佳作 Roland Kirkには遠く及ばない 宮本享典
第35回結果発表
課 題
名人
※応募数234編
Roland Kirkには遠く及ばない
宮本享典
宮本享典
誰にだって野望はある。おれは今でこそT大のジャズ研で燻っているテナーサックス奏者だが、こんな狭い内輪に納まっている器ではない、と自分では思っている。
おれがサックスに目覚めたのは高校時代の吹奏楽部からだった。当時は教師が決めた課題曲を延々と練習させられた。その反動か、アドリブのあるジャズに心惹かれた。
おれは音楽で食っていく決心をしていた。親の手前もあり音楽学校への進学は諦めたが、音楽への情熱は日に日に燃えさかっていった。
勝手に我が師と崇めるのはRahsaan Roland Kirkだ。同時に二本のサックスを咥えて完璧なハーモニーを奏でる盲目巨漢の怪人だ。四十二歳で夭折したが音源はふんだんに残っている。サーキュラーブレージング、いわゆる循環呼吸の達人で、鼻から息を吸いながら口からの息を途切れさせることなく演奏するのを得意としていた。その最長の演奏時間は非公式記録では二時間二十一分だそうだ
おれは愛器のテナーサックス、Wood Stone/New Vintageを持ち込んで(五十六万円もしたんだぞ。生涯の相棒として無理して買ったんだ)ジャムセッションに出掛けた。
ハコは西荻窪の「シメタの店」。キャパは三十人程度の小箱だが、老舗で通った名店だ。
実を言うと、おれはジャムセッションに参加するのは初めてだ。そのせいもあって何をどうしたら良いのか分からない。
しかし、まごつきはしなかった。
おれはここから、今日から名だたる名テナー奏者として世界に羽ばたいて行くのだ。その期待感だけで胸が張り裂けそうだった。
セッション・ホストはドラムのOさん。白髪交じりの引き締まった体の男だ。ベースは長身痩躯のMさん。ピアノは猫背のHさん。
男ばかりだった。
Oさんが最初の曲を指定した。
「酒バラ」
その一言で演奏が始まった。「酒とバラの日々」はジャズセッションでは定番中の定番だ。おれはそのスローバラードを丁寧に吹いていった。ベースに合わせ吹いた。取り敢えずベースに合わせておけば、ちぐはぐな演奏にはならないからだ。
続けて定番曲を何曲か
六曲もこなすとバンドメンバーの個性というのも分かってきた。各人のリズム感はドラムはジャスト、ベースはやや後乗り、ピアノは少し前乗りだった。そのほんの僅かなズレが音楽の印象を形作るのだ。
「Oさん、Giant Steps行きましょう」
おれの提案にOさんは厳しい目を返してきた。Giant Stepsは超有名曲だがその演奏難易度が高いのでも有名だ。
「小僧、本当に吹けるんだろうな」
Oさんは眼でそう言っていた。おれは首肯した。
Hさんは身構えた。
Mさんは「何でもござれ」と平静を保っていた。
OさんはHさんとMさんに眼で「できるか?」と訊いた。二人は頷いた。
それを確認するとOさんがスティックでカウントしてGiant Stepsの演奏が始まった。
おれは意気揚々としていた。
丸ごと原曲のJohn Coltraneの完コピをする積もりは当初からなく、この日のためにかなりアドリブ練習を積んできた。
曲の冒頭のメインリフを吹いた。
こんなのは余裕だ。誰でも吹ける。
この曲の難しいのは激しいコード展開に合わせてアドリブソロを取らなければならない点だ。十六小節をワンコーラスとして11コーラスものソロだ。本当の何の準備もなく吹ききるのは無理だろう。
だがおれは周到に用意してきたのだ。
今日、この曲のソロを皮切りにおれのスターダムへの道が開け、世界進出の第一歩となるのだ。
一コーラス目、二コーラス目。ソロは順調だった。
ソロの間中、おれは循環呼吸で吹いた。
音楽は芸術表現なのだから、その演奏技術の見せびらかしよりも、聴いて美しいものが上等とされる。だが、演奏家は誰でも一度はその演奏技法の追求をしたがるものなのだ。それがおれにとっては「Giant Stepsのソロを循環呼吸で一呼吸で吹きまくった」という伝説を作りたかったのだ。
おれは調子に乗ってかなり吹きまくった。原曲もこれぞとばかりの吹きまくりなのだが、(当たり前だが)ブレスが入る。おれはブレスなしで延々と吹いた。
あまりにも気持ちよすぎてこの難解なソロをいつまでも吹いていたくなった。次第におれの音は遠鳴りし始め、視界から色がなくなり、頭が真っ白になっていった。音楽の恍惚と高度な演奏技術の混交。おれはそれに酔い痺れ、どんどん白くなっていく視界を気にせず吹きまくった。気のせいか耳も遠くなっていった。恍惚の極限で全身が痺れて力が入らなくなっていった――。
おれはHさんに起こされた。
循環呼吸がうまくできず、おれは酸欠で倒れてしまったのだ。
おれは世界へ羽ばたくどころか、危うくあの世へ羽ばたいてしまうところだったのだ。
おれが中断させてしまったソロの繋ぎはMさんがやってくれたとのことだ。あのGiant Stepsでベースソロ! おれは名人芸に助けられたのだ。
「ははは。無茶すんなよ」
セッションホストのOさんが嫌な笑顔でおれに言った。
今日は失敗した。しかしおれの伝説は始まったばかりだ。
次は完奏してやるから待ってろよ!
(了)