第35回「小説でもどうぞ」佳作 お母さんは料理の名人 村木志乃介
第35回結果発表
課 題
名人
※応募数234編
お母さんは料理の名人
村木志乃介
村木志乃介
「わあ、これが牡丹鍋なんだね」
浩介は食卓の中央に置かれた鍋を覗き込むと、大きく息を吐いた。
部屋には獣の体臭を思わせる生臭いニオイが充満している。猪みたいに大柄な父の体臭のようでもある。だけど部屋に父の姿はない。ここ数日、浩介の父親は不在だった。
「もう食べられる?」
「まだよ。これを入れなきゃ」
母はおもむろに大きな冷蔵庫からタッパーウェアを取り出してくる。微かに透けて見える容器の蓋からは桃色の具材が確認された。
浩介の胸が高鳴る。パカッと蓋は心地よい音を響かせて開いた。その瞬間、部屋中に生臭いニオイがいっそう広がる。それもそのはず。タッパーウェアの中には鮮やかな桃色をした猪の肉が詰まっているのだ。
「これが、猪のお肉よ」
「へえ。すごーい。いっぱい入ってる」
浩介が感嘆の声を上げる。母は厚めにスライスした猪肉をつまんで見せた。脂肪がたっぷり入った赤みの肉だ。
浩介は牡丹の花を見たことがなかったが、猪の肉を入れた鍋のことを牡丹鍋ということは母から聞いていた。
「ゆっくりお湯にくぐらせて食べるのよ。すごく栄養があるから、いっぱい食べて。お母さんは、浩介が元気でいてくれることだけが幸せなの」
「うん。わかった。お肉をこんなにいっぱい食べれるなんて初めてだもん。僕、いっぱい食べる。あ、でも……」
「どうしたの? 浩介」
急に顔を曇らせる浩介を見て、母が心配そうに尋ねる。
「ねえ、お母さん。お父さんは今日も帰ってこない?」
浩介の父はここ数日、外出したまま帰ってなかった。浩介は父のことが嫌いだ。帰ってきてほしくない。「こんな野菜ばかりの鍋を食わせやがって。ふざけるな」怒鳴り散らす父の声が甦る。父は肉を食わせろと文句を言っていた。
「あのひとのことは忘れなさい。もう二度と帰らってこないから。最後に、ひどいことしてきてごめんって、あやまってたわ」
「うそ?」
「うそじゃないわよ。涙も流してた」
「えーっ」
「それでね、いままでのお詫びにお肉をたくさん残してくれたの」
「そうだったんだ」
浩介は少しだけ父のことを見直した。というのも、それまで浩介の父は酒を飲んでは暴れていた。ときに包丁を振りかざし、浩介や浩介の母を足蹴にひどい言葉を吐いた。だから浩介は母親の言葉にほっと胸を撫でおろしたのだ。
「浩介、こうやってお肉を出汁にくぐらせて食べるのよ」
母親が手本を見せる。
鍋の中では味噌と醤油で味付けした出汁が湯気を上げている。白ネギや白菜、春菊などの野菜が柔らかく出汁に染みていた。
「ほら、浩介もやってごらん」
「うん」
浩介はうなずくと母を真似て猪肉を湯にくぐらす。桃色の花びらのような猪肉が湯の中で踊り出す。口に含むと脂身の部分がとろけた。だけど不思議な味だった。
「口の中がべたべたする」
浩介は正直な感想を口にする。
「この猪は脂が多かったからね。我慢して食べて。それと浩介、学校で牡丹鍋のことは話しちゃだめよ」
「え、どうして?」
母は息子の問いにしばし考える。
窓の隙間から入る風は冷たい。部屋に暖房はなく、擦り切れた畳の上にはところどころ穴の開いた薄いカーペットが敷かれている。鍋を温めるカセットコンロの炎が唯一の温もりだった。
「浩介、野菜も食べなさい」
浩介の疑問には答えず、母が鍋から春菊を取り出す。しかし、それは浩介が帰りに持ち帰ったタンポポの葉だった。といっても、浩介にとってはいつも食べている春菊である。
「浩介は春菊をみつけるのが本当に上手よね」
「僕、ほかにも持って帰ったよ」
「そうだったわね。白ネギと白菜も上手にみつけてきたわね。お利口さん。あなたは野菜盗りの名人よ」
へへへと照れ臭そうに浩介は笑う。
「ねえ、お母さんもお肉を食べて。僕はもういいから。お母さんにはいつまでも元気でいてほしいんだ」
「なに言ってるの。お肉は食べきれないぐらいあるんだから、しっかり食べなさい。今夜はもう野菜なんか食べなくてもいいから」
「え、ほんとに?」
父は働かずに酒ばかり飲んでいた。だから浩介の家は貧乏で、これまでほとんど肉なんて食べたことがなかった。それが、今夜は肉ばかり食べろと言う。まるで夢のような話だ。
「本当よ。ただし猪のお肉がなくなるまで。もうお父さんはいないから、猪のお肉は手に入らないから期間限定よ。あ、それと、牡丹鍋は包丁さばきが上手なひとしか作れない料理なの。だから、よその家では食べる機会はめったにないわ。いい、浩介。だから学校では内緒にしときなさい。みんながうらやましがるから」
「うん。わかった。お母さんは料理の名人なんだね」
浩介は母親を心の底から尊敬した。
「ま、浩介はお上手ね。いつからお世辞の名人になったのかしら。うふふ」
母は屈託ない笑顔を見せる。
「お世辞なんかじゃないよ。お母さんは料理の名人だって」
「ありがと。冷蔵庫にはまだたくさんお肉があるわ。お父さんがいっぱい残していってくれたから。だから、しばらくは牡丹鍋ばかりになるけど、ゆるしてくれる?」
「もちろんだよ」
浩介は明るく答える。ただ、少しだけ疑問もあった。さっき鍋の中から父がつけていた、金のいかつい指輪が出てきたのだ。父は、猪の肉と一緒に身につけていたものも残していったのだろうか。
「ほら、ボーっとしてないで、食べて食べて」
母の声に浩介の疑問はあっさり吹き飛ぶ。お父さんはいなくていい。浩介は、母のことが大好きだった。
(了)