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第41回「小説でもどうぞ」最優秀賞 と□め□ 志賀廣弥

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小説でもどうぞ
第41回結果発表
課題

ときめき

※応募数358編
と□め□ 
志賀廣弥

「き」という文字が世の中から姿を消して二年が経った。
 文字が突然いなくなるという事象はそれより以前にもあった。初めては「ん」だった。人々は驚き焦りはしたものの「ん」はすぐに帰ってきた。それから後に続くように「ぬ」も姿を消したが、二度目ともなると人々は前よりも文字の消失をすんなりと受け入れた。
 消えてしまった文字の入った言葉は、代替の言葉をとるか、文字が消えたそのまま省略して使われるか、或るいはそこからまた新しい言葉が生まれたりもした。
「ぬ」のときも長く消えていたわけではなく、「ん」よりは長かったが、それでも五日の出来事だった。五十音のなかに序列があるわけではないが、使われる文字の多少はある。「ん」は使われることは多いが、その文字だけでの用途は少ないので人々は代替の言葉を探し、不在の三日を乗り切った。「ぬ」は使用頻度がそれほど多くないので五日の間でいなくなっていたことに気付かなかった人もいた。
 けれど「き」という文字がいなくなったとき、人々は大きく狼狽うろたえた。「ん」や「ぬ」のときとは比べものにならないほど、「き」をなくした人々は言葉と相対するのに疲れ果てることとなった。
「木」は葉の付いたもの、と苦し紛れのように呼ばれ、「気持ち」はこころとなり、「気象予報」は天候情報と変わり、「ギター」は六弦と呼ばれ、「きのこ」は茸と変わり、「恐怖」はおそれとなり、「希望」は願いとなった。
 ものや心情だけでなく擬態語や擬音語など、咄嗟に出てくる言葉に「き」が多かったのも人々を悩ませた。「キャー」や「ギャー」は総じて「ヒャー」となり、「きらきら」や「どきどき」「きゅん」「きょろきょろ」「ぎすぎす」なども、光彩、鼓動、小さな高鳴り、見回す、しっくりこない、などと、まさにしっくりこないいささか色味を失った言葉に言い換えられた。それでも人というのは慣れていくもので、いつのまにかなんとか日常を「き」なしで過ごすようになっていた。
 とはいえ、「き」の不在に頭を悩ませる者はまだ多かった。そのほとんどは若く、恋をしている者たちだった。
「好きだ」という言葉は使えなくなってしまい、「愛している」「慕っている」などという言葉を言語代替協会は明示したが、それではいかんせん重たくなり過ぎる、と特に十代の者たちからは支持されにくかった。いくつか新語も発生はしたが「好き」のように根付くことはなかった。人々は好きなものに対して好きと言うことを奪われ、少なからず誰もがそのストレスを抱えることにもなった。
「どきどきする」というのも、鼓動を感じると言ってしまうといやに身体的なことだけに感じられた。そうではなく、気持ちの部分を言葉にしたいのだ、と好きな子に伝えるべく言葉を考えるが、その「気持ち」もこころとなっているし、「好き」も言えないし、悩める者は自分の言葉をなかなかどうにも上手く動かせなくなってしまうのだった。
 スマホにあてた指先をじっと睨むように見つめる一人の少年も、そうだった。彼は相手に伝えたい言葉ばかりか、自分の名前もまた、失っていた。
 彼の名前は「きっぺい」だった。それまでは両親や友人たちから名前をそのまま呼ばれていたが、「き」をなくしてからは友人たちがそのままでもおもしろいからいいじゃないかと呼びだした「っぺい」で呼ばれるようになった。その話を両親にすると大笑いし、家でもそう呼ばれている。本人としてはいささか不服ではあるが、呼ばれれば答えざるをえない。彼のように名前の一文字を失い、アイデンティティを失う者も多かった。地名しかり人名しかり、なんとか呼びやすくわかりやすいものに付け替えられたが、人の名前においては当人よりも周りにいる者が付ける場合が多いので、本人としてはしっくりこない場合も多かった。
 っぺいが好意を持っている同じクラスの子は、「ゆき」だった。彼女もまた名前をなくした一人だったが、ずっと「ゆーちゃん」と呼ばれていたので耳には何も変わらなかった。
 ほろ苦く、それでいて甘く重たい悶々としたものを抱えたまま、っぺいはその日の朝も通学路を歩いていた。制服のポケットからスマホを取り出してなんとはなしに画面を見る。一緒に入れていたハンカチを落としたことにはまるで気付かなかった。
 雲ひとつない青空に一陣の風が通り、ふと顔を上げると、今度はどっと強い風が起こった。目に入った髪を除けようとしたときに、っぺいは街路に立ち、大きく葉を揺らす「木」を見た。
 それは「木」だった。葉の付いたもの、ではあるが、それは紛れもなく「木」だった。「き」が帰ってきたのだ、とすぐにわかった。
「きっぺいくん」
 と後ろから声が聞こえた。振り向くと、ゆきちゃんが立っていた。手には自分のハンカチを持っている。これ、落としてたよ、と彼女は微笑んだ。
 その笑顔はあまりに眩しくきらきらとしていた。震える声でありがとうと言ってハンカチを受け取ったとき、微かに手が触れ合った。きっぺいの胸はどきどきと高鳴り続け、これは、この気持ちは、ときめきだ、と強く強く噛みしめた。
(了)