第41回「小説でもどうぞ」佳作 子熊のぬいぐるみのベアリ 齊藤想
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第41回結果発表
課 題
ときめき
※応募数358編
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齊藤想
子熊のぬいぐるみベアリは、車椅子の少女の手によって、空港の待合席にそっと置かれた。ベアリの首には小さな日記帳がぶら下げられ、両手には「私を旅行に連れて行ってください」と書かれた看板を持たされている。
多くの旅行客が行きかうなか、少女はベアリの頭を撫でた。
「ねえ、ベアリ。私は病気で旅行に行けないの。だから、私の代わりに、たくさんの国を見てきてね」
少女はベアリの瞳を見て、ゆっくりと話しかける。ベアリの目に少女の顔が写る。
「いつか私のもとに戻ってきて、いっぱい思い出を聞かせてね」
母親が少女の言葉を聞いて、静かに涙を浮かべる。きっと、この子は素晴らしい思い出が詰まったベアリの日記を見ることはできない。そのことは、彼女も理解しているはず。
だけど、ベアリのことが、生きる希望になってくれたら。
母親はひざを折って、目線を少女とベアリに合わせる。
「お別れは済んだかしら」
少女は小さく首をたてにふる。
母親は車椅子を反転させると、ゆっくりとその場から遠ざかった。
ベアリは二時間ほど空港のロビーで座り続けていた。ある旅行客がベアリのことを見つけた。ベアリが手にしている看板を読み、日記帳を開いた。そして、ペンで書きこむ。
「これから、ぼくはトーマスおじさんと、ロンドンに行くよ!」
ベアリは旅行客の胸に抱かれると、そのままイギリスへと旅立った。
ベアリは順調に旅を続けた。男性はベアリをロンドンの空港の目立つところに置いた。すると、今度はベアリを見つけた老夫婦がフランスへと飛んだ。老夫婦はベアリのことを可愛がり、観光地を回るたびに日記に書きこんだ。
「いまはアミエル夫妻とルーブル美術館にいるよ」
「こんどはヴェルサイユ宮殿についたよ」
老夫婦はベアリを孫のように大切にして、一緒に撮影した写真も日記帳に挟んだ。そのまま二人のものにしようかと思ったこともある。
けど、持ち主の少女のことを思うと、ベアリに旅を続けさせるべきだ。
アミエル夫妻は、ベアリを空港の待合席に戻した。看板と厚くなった日記帳をベアリの胸元に残して。
ベアリはいつも順調に旅を続けたわけではない。メキシコではピンチに陥った。
空港でベアリを拾ってくれるひとがだれも現れず、夜中の清掃員によって廃棄処分される寸前だった。
清掃員はベアリの日記帳を開き、たくさんの写真が挟まれているのを見て、空港のカウンターにそっと置きなおした。
命拾いをしたベアリは旅をつづけた。
ベアリは、ドバイ空港である日本人に拾われた。彼は日本を代表する大企業のトップで、プライベートジェットで世界中を飛び回っていた。
「ぼくと一緒に旅をしよう」
彼は大人にしては少し変わった趣味を持っていた。出張先に必ず子犬のぬいぐるみであるシバを連れていたのだ。
ベアリはシバのとなりに置かれた。
「これはぴったりだ。まさにお似合いのカップルだぞ」
満足した日本人は、ベアリの日記帳に書きこんだ。
「今日、ぼくは初めて恋をした。ぼくが恋をした相手は、ぼくと同じように、世界中を旅している子犬だよ。一緒にいるだけで、胸がときめくんだ」
ベアリはシバと五年ほど一緒に過ごした。
日本人が経営の第一線から引く日が来た。もうプライベートジェットで世界中を飛び回ることはない。
日本人は、ベアリの瞳に語りかける。
「これ以上、ぼくの手もとに残すことは許されない。持ち主のもとに帰る日がきたんだ」
ベアリの日記帳は五冊目になっていた。
日本人は最後の旅行先として、少女の住所であるアメリカのアトランタを目指した。少女を驚かせないように、空港からはタクシーを利用した。
日本人が少女の自宅にたどり着いたとき、すでに少女は息を引き取っていた。
母親は日本人をリビングに通すと、丁寧に感謝の念を述べた。
「わざわざ遠いところをありがとうございます。ベアリが戻ってきて、あの子も喜んでいると思います」
少女の母親はゆっくりと頭を下げた。そして、ベアリの前に積み重ねられた日記帳を開く。次から次へとあふれ出てる文字。楽しそうな写真。
娘がしたかったこと、できたらいいなと願っていたことが、全て日記帳の中に詰まっている。
母親は思わず涙をこぼした。
日本人は、ベアリのとなりに古い子犬のぬいぐみを置いた。
「そのぬいぐるみは、どうしたのですか?」
日本人は答える。
「これは、ベアリの彼女のシバです。シバがどうしても、ベアリと離れたくないというものですから、一緒においていただけたら嬉しいと思いまして」
母親はほほえんだ。
「お断りする理由なんてありませんわ。これで、私たちは親戚になるわけですね。ふたりに子どもができたらどうしましょう」
「そのときはパーティーをしましょう。ぜひとも呼んでください」
日本人が帰宅したあとで、母親は娘の部屋に入ると、少女の遺影の前にふたつのぬいぐるみを並べた。
「これからは、三人でたくさんの思い出話をしてね」
母親が遺影たちに話しかけると、窓が開いていないのに風が通り過ぎた。
止まっていた少女の時間が動き始めた。ふと、そんな気がした。
(了)