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第41回「小説でもどうぞ」佳作 ロマンスを洗い流して 上田薪ノ助

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第41回結果発表
課 題

ときめき

※応募数358編
ロマンスを洗い流して 
上田薪ノ助

 私が目を覚まして一階のキッチンに降り立った時、すでに姉の姿はなかった。
 早い時間に出発したらしいが、シンクはピカピカに磨き上げられていた。姉がしばらく家を開ける時の習慣だ。ひょっとすると寝ずにこれをやったのかもしれない。今頃は太平洋上空を飛んでいるのだろうか。「今度の連休は二人で温泉に行こうね」という私との約束を放り出して。
 私と姉は二人きりの姉妹で、三年前に母が他界してからは二人きりの家族だ。
 姉は短大を卒業後、地元の市役所に勤めて三十五年間、ずっと地域課の職員として働いている。私は東京の大学から新卒採用で東京の商社に就職したものの、人間関係をこじらせて退社。今は生まれた町の中堅食品会社で働いている。歳は姉と四つ違い。姉妹揃って独身、どころか戸籍に×も付いていない。
 互いに結婚という言葉を口にするのを避けるという段階もとうに過ぎ、結婚しなかったことで生じたメリットをありがたくいただきつつ、「老後は二人で楽しく暮らそうね」と話していたのだ。
 そんな姉が今朝、カリフォルニアに飛んだ。メールで知り合ったアメリカ空軍のエースパイロット、ジェイソン・マクスウェル中佐に会いに行くために。難病に苦しむ彼の父親の手術費200万円を携えて。
「詐欺に決まっている」と私は止めた。しかし、その制止を振り切り、姉は旅立ったのだ。
 行ってしまったものは仕方ない。姉とて一人の人間、独立した意志を持つ大人だ。私は姉と二人で温泉に行くことを諦めた。が、温泉行きまで取りやめるべきか、その決断が下せない。
 五十路女のひとり温泉旅行は、やはり少し寂しい。しかし、現段階ではキャンセルしても旅館の宿泊費は100%負担。迷っている私の背中を押したのは、「いってきます♡」という姉の残したメモだった。その語尾にあるハートマークが、私を奮い立たせたのだ。
 私はボストンバッグに三泊四日分の衣類を詰め込み、幼い頃から家族と暮らした築四十五年の木造二階建て家屋の戸締まりを確認し、ガスの元栓をしっかり閉めて、駅へと向かった。

 私はいま、どこかの小学校の運動場で、小学生たちと徒競走のスタート位置に立っている。大勢の保護者が我が子を応援するため、白線で書かれたトラックを囲んでいた。
 スタートの合図が鳴り、走り出す。相手は子供だ、負けるはずがない。なのに、私は小学生たちに引き離された。観客の歓声がどんどん大きくなる中、私はついに運動場に倒れ込んだ。地面は乾いたステンレスのように冷たかった。
 目を覚ますと、温泉地へ向かう列車の中だった。いつの間にか私は、窓ガラスにほっぺたをつけて眠っていた。周りは家族づれやカップルたちが席を埋め、はしゃぐ子供の声や若者たちの笑い声で充ちていた。まるで見ず知らずの人の結婚披露宴に紛れ込んでしまったように、そこにいる私は場違いな存在だった。
 窓の外に溢れる新緑が、鼻腔に残るクエン酸の匂いと合わさって目に沁みた。
 旅館に到着した。独身姉妹が選んだ部屋は豪華だった。仲居さんが奥の障子を開けてくれた。窓から海が見える。私はすかさず窓辺に行き、窓を開けた。風が私の薄い体を通り抜け、体内のフィルターに溜まった澱だか煤だかを洗い流してゆく心持ちがした。
 が、完全にきれいさっぱりとはいかない。引っ掛かっているのは、やはり姉のことだった。
 姉は騙されている。出発前の段階ですら、いくらかは騙し取られていただろう。そしてここへ来ての200万円。ひょっとすると更に搾り取られるかもしれない。
 私たち姉妹は慎ましく生きてきた。家は持ち家だし、ブランド物を買い漁ることもなければ、高級レストランを食べ歩くこともしない。
 故に、預金残高はなかなかの額になっている。だから金ですむのなら、姉の身に危害が及ぶことがないのなら、預金を使い果たした姉の老後を私が世話してやってもいい。だからどうか姉を私のもとに返してくれ。

 温泉地に来て三日目。家に買って帰るための饅頭を土産物屋で買い、私はしばらく温泉街をぶらついた。
「糸子ちゃん」
 私の名を呼ぶ声。振り返ると、クタクタに疲れた顔でキャリーケースを引く姉がいた。
「姉さん」
「聞いてちょうだいな、ジェイソンったらね、空軍パイロットだなんて真っ赤な嘘。歳だって三十歳も誤魔化していたのよ」
「父親が病気だって言うのは?」
「それも嘘、ピンピンしてたわ」
「じゃあ、200万円は?」
「渡すもんですか。今回ばかりは、あなたの忠告を聞かなかった私が間違ってた。人間、あまり自分の直感を過信してはダメね」
「当たり前だろ、ざまあみろ。私との約束をほっぽり出した罰だ」
「あら、ひどい」
「私はその間、たっぷり温泉に浸かって、旨いもんたらふく食って、思い切り羽を伸ばしてやったぞ」
「私だって今夜は温泉で旅の垢を落として、ヘベレケになるまで呑むわよ」
「仕方ない、ヤケ酒に付き合ってやるよ。支払いは姉さん持ちでね」
 姉が無事に帰ってきた。
(了)