第41回「小説でもどうぞ」選外佳作 なんでもない日 柚みいこ
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第41回結果発表
課 題
ときめき
※応募数358編
選外佳作
なんでもない日 柚みいこ
なんでもない日 柚みいこ
冷蔵庫を開けて「しまった」と思った。牛乳の賞味期限が切れていたのだ。
――やっぱり一リットルは多いわね。
次からは半分のにしようと反省し、賞味期限切れの牛乳を捨てた。
財布とエコバッグを鞄に入れて買い物に出掛けることにした。鞄は長い紐がついたショルダーバッグで、肩からずり落ちないよう斜め掛けにしている。普段は自転車に跨るが、今日は運動も兼ねて徒歩にした。
トコトコ歩いて近所のコンビニに行き、目当ての牛乳を籠に入れる。ついでに惣菜も幾つか選び取り、支払いを済ませようとレジへ行くと、カウンター前に豆大福が並んでいた。それも二つ足して店員に籠を渡した。
「袋はどうしますか」
「大丈夫です」
エコバッグを鞄から出すと、主婦と思しき店員が気を利かせて「こちらでやりますよ」とエコバッグを引き受けて手際よく商品を詰めてくれた。学生アルバイトではこうはいかない。後ろに並ぶ客に気を使いながら、大慌てでエコバッグに仕舞うところだ。
気分よく帰り道を歩いていると老人ばかりが目につく。昔は乳母車を押す若い主婦や道端で遊ぶ子供たちがそこかしこにいたが、昨今ではすれ違う人も垣根越しで立ち話をする人もお年寄りばかりだ。
家に戻ると、早速、買ってきた豆大福を仏壇に供えた。豆大福は夫の数少ない好物だ。
茶を一口啜り、ほっと息を吐いたところで、買ってきたものを冷蔵庫に仕舞っていなかったことを思い出した。近頃は忘れん坊で困る。一度手にした豆大福をちゃぶ台に置き、よっこらしょ、と立ち上がった。
夫とは見合い結婚だった。親戚が話を持ってきて勧められるまま夫に会い、なんとなく話がまとまってしまった。
家庭は概ね良好だったと思う。無口で冗談一つ言わない夫はやや退屈でつまらない人だったが、娘三人を無事嫁に出すことができたのは、紛れもなく彼が真面目に働いてくれたお陰だ。
日が陰り始めたので庭に出て洗濯物を取り込む。それを畳みながらテレビの韓流ドラマを見るのが最近の楽しみだ。
お互いの両親に反対されて泣く泣く別れた恋人が、数年の時を経て再び巡り会った。
君のことが忘れられなかった。
わたしもよ。
きゅんと胸がときめき洗濯物を持ったまま身を
「お父さんって、何が楽しいのかな」
以前、末っ子の娘が言っていた。
若い頃、一度だけ夫に向かって鼻の下に指を当てて「カトちゃん、ペッ」と、ふざけてやってみせたことがある。茶の間で新聞から顔を上げた夫は眉一つ動かすことなくわたしを一瞥するが、そのまま無言で新聞に目を落とした。それ以降、夫に冗談を言うのをやめた。
一人分の食事を作るのがすっかり億劫になってしまい、今晩は買ってきた惣菜で済ませることにした。小分けにして冷凍庫に入れておいたご飯をレンジで解凍し、昼間のお味噌汁の残りを温めた。
テレビの前に陣取り、ささやかな食事をする。夫はNHKしか見ない主義だったが、今はわたししかいないので、どこの局でも見放題だ。リモコンを手に取ると、パチパチとチャンネルを切り替えた。
風呂を沸かして湯に浸かる。夏場はシャワーだけで済ませてしまうこともあるが、やはり湯舟に入ると疲れが取れる気がするのは年のせいか。
寝巻に着替えて本日最後のトイレに入る。トイレの棚に置いた卓上カレンダーを眺めていたら、ふと今日は夫の月命日だったことを思い出した。
――あ、やばい。
何もしなかった、と一瞬焦るが、昼間、豆大福を供えたことを思い出し、それで勘弁してもらうことにした。
いそいそとトイレから出て茶の間へ行き、仏壇に手を合わせてから供えていた豆大福を下ろした。
――いま何時かしら。
ちゃぶ台の上に置きっぱなしにしているスマホを開くと、十時を回ったところだ。今日くらいいいわよね、と自分に言い訳してから豆大福を包んでいたセロファンを開けた。
夫は夜食を良しとしなかった。健康に悪いというのが理由だったが、その健康に気遣っていた本人が早々に旅立ってしまった。
ちゃぶ台の上に白い粉を落としながら豆大福を頬張っていたら、俄かに茶が飲みたくなってきた。手をはたいて立ち上がり、先程、電源を抜いたばかりのポットの中身を確かめた。
思えば夫との生活は凪ばかりの日々だった。人はそれを幸せというのかも知れないが、時には思いっ切り大波を起こしてみたかった。
仏壇の夫に話し掛けた。
「ねえ宏さん。あなたが亡くなったとき、悲しかったけど少しだけときめいてしまったの。これからは、わたしの自由に出来るって」
(了)